2013年5月26日日曜日

躓きについて


母の朝食を介護して京都のコイノニア会に行く。














司会者の基調発言から長崎の隠れキリスタンの弾圧について報告がある。
キリスト教禁止令は明治時代初期まであり岩倉具視使節団も欧米諸国からの強い抗議をうけた。

それに関連して話題は江戸の国学者平田篤胤の思想形勢に聖書が取り入れられていたことを知ったこと。

明治の国家を形成してゆく過程に聖書が影響していたとはびっくり仰天。





イエスの躓きを与えるものへの厳しい叱責は聖書の中でここだけと述べています。

マタイ18 
しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。

ルカ17章
イエスは弟子たちに言われた。「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。

そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。





わたしは時の権力者によるキリスタンの弾圧において、
耐え切れず転ぶ(躓く)人をイエスは一つも非難していません、
躓かせる人を激しく非難しているのですと述べた私市氏に思わず拍手した。






小さきもの、虐げられる者を非難するのはお門違いです。

さらに私市氏は

人が人として持つことのできる最高のもの、何ものにも奪われてはならない
貴重なその人の人格的な霊性です。
これありて真の人あり、これなくば人にあらず「人でなし」です。
 
 
ところが「この世」では、この最も貴重なものが最も粗末にされているのです。
 
その人の人格的霊性よりも、家族とか、会社とか、職業とか、世間的な名誉名声とか業績とか、とりわけ民族とか国家など、人の「基本的人権」よりも「もっと大事なもの」で「この世」は溢れています。
 
「永遠の命」などを真面目に扱っていては「この世」でとうていやっていけない。こう思い込んでいる人たちがほとんどです。






また同じように注意しないと見過ごされてしまいますが、
イエスはもし片方の手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨ててしまいなさい。両手両足がそろったまま永遠の火に投げ込まれるよりは、片手片足になっても命にあずかる方がよいと言っています。

こんどはあなたが自分に躓くことがあるというのです。





自分に躓くことと人を躓かせることと究極は一緒のところから出ています。
イエスにあってこのみことばをよく吟味してみましょう。





ゲヘナはエルサレムの谷の場所の名前で自分のこどもを犠牲として偶像に捧げた場所であると私市氏は言われる。





ゲヘナは偶像礼拝のために息子や娘など人間を犠牲に捧げる場として主なる神の激しい怒りと裁きを受ける場とされていました。「偶像礼拝」と「人間の犠牲」と「神の呪い」と最終的な「裁きの火」、この四つがセットになっているのが「ゲヘナ」です




「人を犠牲にする」とは、その人の人格的霊性を無視してこれを己の拝む神へ献げることを意味しますから、逆に見れば、「人を犠牲にするもの」は、それが何であれ「偶像」です。人を犠牲にすることを求めることを「偶像礼拝」と言うのです。




イエス様の御霊にある愛は永遠になくならない愛です(第一コリント13章13節)。愛はそれ自体が目的でありほかに目的はありません。だからイエス様の愛は、相手を愛以外の「何かほかのこと」に利用することをしません。このような愛だけが人を束縛することなく、ほんとうの意味でその人を人格的に自由にしてくださいます(第二コリント3章17節)。自由は真(まこと)の愛の特性であり、自由は真理の証です(ヨハネ8章32節)。





パウロが言うように、啓示を通して与えられる栄光の主のお姿は自分自身のあるべき栄光の姿と重なります。聖書がわたしたちに伝えようとしているのはこのような永遠の命です。永遠性を帯びた人格的霊性です。これを見失うことがすなわち躓きであると深く悟ることが「躓き」を知る上で大事なのです。自らが躓かないようにすること、これが人を躓かせない最大の秘訣だからです。


 私市氏の講和 躓きについて より抜粋。

 

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