2013年3月31日日曜日

こどもを抱きかかえるナザレの男


Chateau Croix-Mouton Jean Philippe Janoueix  2010

イエスは弟子たちに『途中で何を議論していたか』とお尋ねになった。
彼らは黙っていた。
途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。

le Haut-Medoc de Pedesclaux 2006


今日のコイノニア会の講話は
贖いの時が迫るさなかに弟子たちが
誰が一番偉く弟子としてふさわしいのかと議論しています。

イエスが十字架にかかってのち西暦70年ごろの教会の様子や、
私たち現在の教会の人の姿ともダブって見えてきます。

 
 
イエスがこどもを真ん中に立たせて天の御国で一番偉いものはこのような子どもを私の名の故に受け入れる人だといいます。

いったいイエスはこどもをどのように見ていたのでしょうか
私たちに向けられた問いです。



【わたしの名のために】「名のために」とはその名前の人の「代理」になることを指します(13章6節参照)。だから今回の箇所でも「子供」のような低くて取るに足りない者こそ「イエス自身を現わす」のです。そのような者を見たらイエスだと思って「歓迎しなさい」(「受け入れる」の意味)と言うのです。








私の名の故に受け入れよと迫るイエスの大切に思うまなざしの先に

(こども)とは、純粋無垢なものととらえるのか、
それともしいたげられた人々ととらえるのか

私市氏はイエスのまなざしに罪びとへの愛があると言う。

誰が偉いかマルコ9章33~37節/マタイ18章1~5節/ルカ9章46~47節


イエスはわたしの名の故に受け入れなさいと言われているこども。
社会からのけ者にされる無権利のものを真ん中に連れもどし立たせる。
永遠の命であるイエスの霊が私たちに語りかけてきます。


わたしは講和で興味を持ったのは、この聖書の箇所から
ヨーロッパで孤児院が設立されたということにです。

イエスの霊に動かされる人々がヨーロツパにもいたことの証です。







 

2013年3月27日水曜日

L`heritage Chasse-Spleen 2008



月一回の二連休の休暇にわざわざ帰宅するのは娘の優しさ。




山崎に盲導犬の施設内の立ち入りがOKとなる。




今から盲導犬の訪問を楽しみにしている。





ダニエルは悠子の顔を舐めまくりたくて仕方がなかったが、
駄目の一言に飛びつくだけで我慢している。





麻薬犬や盲導犬はじつと使命を全うする姿がいじらしい。
尻尾を踏まれても我慢している。





ダニエルの自由奔放さをなじるので、わたしはダニエルの
素晴らしさを擁護する。





お父さんから貰って帰ったワインお友達と戴いた、おいしかった。
そんな言葉を聞くと嬉しくなる。





今晩飲んでいるワインもおいしいと言葉で表現する。









親の私でさえ口から表現されて嬉しい。






人も神も言葉を語り、言葉によってひとが変わってゆく。
語られた言葉にはことばと人と結びつける力がある。




 

2013年3月24日日曜日

祈りを重ねて



教会にいる時、遠く病院では若者が回復の闇の中をさまよっていた。




食事を重ねるようにひたすら回復を主に祈った。




今日嬉しい栄光が実現した。




若者が教会にやってきて元気な挨拶をする。
喜びが湧き上がる。



今日の有登さんのメッセージの中で印象に残った御言葉がある。
イザヤ45:18




 東日本へ援助に行ったときであった御言葉だそうで
神はこの地を茫漠としたものに創造せず人の住処として形造られた。





何と言う励ましだろう、バビロン捕囚を経験したイスラエルの人たちへの
励ましのようにわたしは主の励ましを聴いた。





御言葉は必ず成就します。
祈りは届いています。




わたしはあなたがたの年老いるまで変わらず、白髪となるまで、
あなたがたを持ち運ぶ。




わたしは造ったゆえ、かならず負い持ち運び、かつ救う。




嬉しい神の励まし。



今日、教会に見えた若者の挨拶に現れた主の栄光と同じ励ましだ。
嚥下障害と、声帯の障害を主は負かされている。










東佐野病院に入院している父の担当医師から病気について
妹と一緒に説明を受ける。



肺炎は完治している、血尿も治まっている。
現在の治療は膀胱の収縮を目的に導管を膀胱に入れている。



入院時残尿が3ℓもあり、
それが肺の感染炎症を引き起こした可能性もあるとのこと。




ホライズンの施設にいた時からすでに漏れた分しか排尿できて
いなかったのではないと推測しているとのこと。




そういえば、前立腺癌の疑いで昨年の10月ごろ貝塚市民病院へ
検査のため行ったことがあった。




そのときは、医師は観察する限り症状は見られないとのことで
対処療法的に病気と付き合うという事で帰ってきた。





今、その時が訪れた。




わたしは父のこともすでに主にゆだねている。
主が示されるものを選んでゆこう。




あなたの父と母を敬いなさい。
今こそみことばどうりなりますように。





 

2013年3月16日土曜日

福音は神の力



福音となんのことですか。
世間では良い知らせと言われています。
良い知らせとは何ですか。




イエスキリストの十字架の贖いです。





はあっ? ほとんどの人にとって ? がまだつつきます。





バチカンでは新法王フランシスコ一世が誕生しました。
私たちの貝塚聖書教会では山里将之牧師が誕生しそうです。






教会制度の指導者の誕生と私たちの贖い主とそこに何の関係があるのでしょう。








安息日は人のために定められたのです。
人が安息日のためにあるのではない。






このように語るナザレのイエスの言葉が

私たちは一人一人の上に聖霊として及んできます。





教会制度に私たちがあるのではない。

私たちは主の十字架の贖いの故に罪から自由になって

一人一人自由に存在するためにある。







自由ゆえに主の贖いの愛に応答するように私たちは集うのです。

イエスをキリストと崇め賛美するために。





よく主の僕と言う表現がありますが、わたしはこの言葉は私には当てはまりません。
イエスはわたし達に友と語りかけておられることで僕ではなりたちません。
神と友となり得る私たちです。






アッシジのフランチェスコFrancesco d'Assisiラテン語Franciscus ssisiensis、本名 ジョヴァンニ・ディ・ベルナルドーネ Giovanni di Bernardone1182年 7月5日 - 1226年10月3日)は、フランシスコ会(フランチェスコ会)の創設者として知られるカトリック修道士。「裸のキリストに裸でしたがう」ことを求め、悔悛と「神の国」を説いた。


彼の名を尊ぶ、カトリックの法皇となられるアルゼンチンのブエノス・アイレスで生まれの人にもイエスの霊が及んでいると私は信じている。






このようにして人はイエスにある聖霊によつて集い私たちの父の愛を賛美するのです。







放蕩息子は父の身元に帰ってゆく私たちの姿です。
娘の悠子の放蕩を愛を持って見守る両親のような愛です。






私はあなたの父と母を敬えという神の命令がなぜ十戒にあるのか不思議に思っていました。







私は悠子を失って初めて天の父の愛の深さを知ったのです。

あなたの父と母を敬えは、わが子にたいする父の愛に天の父の愛を重ねることがでる唯

一の現実に経験できる親の子への愛にあるからです。





人の子を愛する気持ちが唯一天の父の御心に等しいものだと語られているのだ

と思います。






母と父がわたしを愛してくれたように、私も悠子を愛しています。

この物語は人格としての悠子は当然親から自立するために親の愛を感じながらも

なお自由のために自らの道を求めることも自然であるという事も含んで語っています。





その時、両親は天の父のように放蕩息子を待つ心境になる。




福音はイエスキリストの贖い。





子である私たち一人一人は父の元から自立して父の愛を疎ましく感じていることから再度父と子の愛を確かめ合う関係に戻ることに素直になることを勧めているように思える。






天にいる創造主と和解することは、私たちの父と母と和解することにあるのです。
御言葉は語っています。あなたの父と母を敬いなさい。










それではどうなりますか




福音とはなんなのですか。





イエスキリストの贖いです。







創造主に祝福された人生を分かち合いながら生きることです。