2010年2月15日月曜日

マルコ、ヨハネ、使徒を読んで感じたこと




マルコ
ナザレのイエスの十字架の死に臨むイエスの姿は


ローマ百人隊長が、まことの神であったと語るように


真実な生きざまであった。


プラトンの著書


ソクラテスの死に重なる。


ヨハネ


ロゴスが神とともにあった。
ヘブライからヘレニズムへ
まさにイエスはユダヤから異邦人へ。



使徒
写真は
(アテネにあるアレオパゴス)
その後、パウロはアテネを去ってコリントへ行った。


そこでアクラというポント生まれのユダヤ人およびその妻プリスキラに出会った。


クラウデオ帝がすべてのユダヤ人をローマから退去させるように命令したため、
近ごろイタリアから来ていたのである。






ローマ皇帝ネロの生い立ちとナザレのイエスと
二人の過酷な境遇から、
同時代の運命にあって二人の
死にネロには墓に花が供えられたが
イエスには復活が。
タルソ生れのパウロはイエスとの出会いをアテネのアレオパゴスの真ん中で告白しています。使途17-22


エピクロス派とストア派の哲学者もいたアテネで今日でも当然失笑をかうのがわかっていたと思えるにもかかわらず


「イエスを死者の中からよみがえらせることによって、このことの確証をすべての人にお与えになったのです。」
と告白しているところです。


この陳述によってアオバゴスの裁判官ディオメシオ、ダマリという女、その他の人々がパウロにしたがって信仰に入りました。




あらためてヘレニズムに生きた人々が
言葉を信じ、人と人の間でつぐまれ
私たちまで言葉が届いたことを思うと、
ヘレニズムの現実社会を生きた一人ひとりの
【見て聞いて自分で判断し他者へ伝えること】
このことの大きさを思い知らされる。
言葉が人とともにある。
当時の人々も、またわたしたちも、これからも
(言葉)の一役を担っている。

2010年2月12日金曜日

アレクサンドリア

ギリシャ文字が書かれた器、アレキサンドリアの海底より出土

                        カエサリオン
クレオパトラとシーザーの間に生まれた子、アレキサンドリアの海底より出土


                   ファロスの灯台
世界7不思議の一つ、ファロスの灯台アレキサンドリアにあった。
聖書にあるエフエソのアルテミス神殿の時代




アレクサンドリアは紀元前332年アレキサンドロス大王の遠征によりうまれたギリシャの植民都市。


ここには
世界最大の図書館や、ギリシャ式学術研究所ムセイオンが建設される。


アレキサンドリアにいるヘレニズムのユダヤ人たちは旧約聖書をギリシャ語に翻訳。

アレクサンドリアはアレキサンドリア学派と言われる知識階級を輩出する。

数学者のエウクレイデス、地球のおおきさを正確に測ったエラトステネス、

アルキメデスなどがムセイオンで(ミュージアムの語源)活躍する。



当時世界で一番大きなファロス灯台を建築。
紀元前31年ギリシャ支配が終りローマの属国となった。



その後も、ヘレニズムの文化がアレクサンドリアで開花ギリシャ哲学とアレクサンドリア学派と呼ばれるキリスト神学者を多く輩出する。


アレクサンドリアのユダヤ人フィロンはギリシャ哲学の知識を旧約聖書の解釈に適応し、後のアレキサンドリアのギリシャ教父オリゲネスに影響を与える。


以上アレクサンドリアに関する文章より抜粋する。

わたしはこのことから、ナザレのイエスについてエルサレムで宣教しているペテロの言説よりもむしろパウロたちのヘレニズム的な言説がアレクサンドリアにあったように思える。
パウロが改心して逃れたとあるが、この間にアレクサンドリア学派の言説と交流があったようにわたしには思えてくる。









2010年2月11日木曜日

公会議が私にあたえた真実




写真はイズニクの器
ニカイア公会議325年3月20日から小アジアのニコメディア南部の町ニカイア(現在トルコ共和国ブルサ県イズニク)で開かれたキリスト教の歴史で最初の全教会規模の会議、これを公会議という。


公会議はナザレのイエスについていろいろな見方思い考え方をする人々が生きていたという歴史証明。

現在も聖書に書かかれているイエスについて、
公会議で議論したように異なるみかたをする人のいることの方が自然であり、むしろいないのが不思議だ。それだけ歴史の中で忘れさられてきたと言える。
 
ローマ帝国領にフン族やゲルマン人の侵攻がはじまっている中で
なぜ公会議を開かなければならなかったのか、ローマ帝国の支配に至るさなかでナザレのイエスについて証言する教父たちの言論の中から異端とされていった過程に興味がつきません。

2010年2月9日火曜日

ナザレのイエスを述べ伝えた人々がローマに達したとき、ミトラを信じる勢力がすでにいました。







ローマ皇帝ネロの教師セネカは青年時代アレキサンドリアで学ぶ。


バクトリア滅亡後クシャーナ国にある仏教はガンダーラとよばれ弥勒菩薩にみられるアルカイックスマイルはヘレニズムの影響があると言われている。


このようにヘレニズム領域はギリシャの文化学術が優勢していた。


ミトラス教は古代のインド・イランに共通するミトラ神の信仰であったものが、ヘレニズム文化交流によって地中海世界に入った後に形を変え、ローマ帝国治下で紀元1世紀より5世紀にかけて主に軍人を中心に普及しローマの国教の地位を争ったほどの宗教に発展する。
このようなことから推察すれば、ヘブライの神も、形を変えヘレニズムに受け入れられローマに至ったと考えられる。

ローマにおいて、ミトラの神事の形がキリスト教と融合することも自然なことと考えられる。
という文章を読んだ。

キリスト教の宣教の歴史について真実を知りたい思いがますますつのります。

2010年2月7日日曜日

立春から3日経ちました









本日は聖餐式。




それからみなが食事をしているとき、イエスはパンを取り、

祝福して後、これを裂き、彼らに与えて言われた。

「取りなさい。これはわたしのからだです。」

また、杯を取り、感謝をささげて後、彼らに与えられた。

彼らはみなその杯から飲んだ。

イエスは彼らに言われた。

「これはわたしの契約の血です。多くの人のために流されるものです。」


私は、食事のとき、葡萄酒を感謝していただいています。






毎日が聖餐式です。

2010年2月1日月曜日

子ヒツジの花嫁に同席。御国までの旅立ちに私もついていく。








29日、主の結婚式に出席、
一月は7 日ハローワークで雇用保険の請求手続、
22日雇用保険説明会、

退職金27日銀行へ振り込あり。

30日雨山のハイキング始める。


地図は4世紀のキリスト教の布教状況
赤の地域はユダヤの人が多く居住した場所に重なる
写真はシノペの写本



シノペは黒海沿岸のポントス地方にある。


2世紀のマルキオンや、

古代哲学者樽のディオゲネスもこの地に生れる。

ポントスはギリシャ人の植民都市であった。

※シノペのマルキオンについて
聖書の聖典という概念を初めてうちだした。
マルキオンの思想にはパウロへの強い思い入れとグノーシス主義の傾向があり、
彼の聖典には旧約聖書が取り除かれている。
ローマでマルキオン派という自分たちの教会を結成しその後何世紀にわたり存続
エジプト、メソポタミア、アルメニアまで広がった。 

アルメニアは世界で一番最初にキリスト教を国教会とした。