2014年6月18日水曜日

三隣亡 (さんりんぼう) と Chateau Cap De Faugeres


Wikipeda三隣亡より

三隣亡の由来は全く不明で、いつ頃から三隣亡の慣習が始まったかは判明していないが、江戸時代に入ってから確立されたとされる。実際、三隣亡は、江戸時代よりも前の古い暦注解説書には書かれておらず、江戸時代になってから見られるようになっている。




江戸時代の本には「三輪宝」と書かれ、「屋立てよし」「蔵立てよし」と注記されていた。すなわち、現在とは正反対の吉日だったことになる。これがある年に暦の編者が「よ」を「あ」と書き間違え、それがそのまま「屋立てあし」「蔵立てあし」と伝わってしまったのではないかとされているが、真偽は不明である。後に、「三輪宝」が凶日では都合が悪いということで同音の「三隣亡」に書き改められた経緯がある。







六月の母







母は至って元気です。
訪問介護の方たちの優しい声かけに答えて目をあける事が多くなり、
表情も穏やかになりました。








母に比べわたしと雅子は右肩にそれぞれ肩の腱の断裂と脱臼を起こして
二人は仲良く右腕が効きません。








右では効き手のため、使えないといろいろな難儀が生じる。








服を着るのも、歯を磨くのも、雅子は料理するのも。
トイレも食事も、風呂に入るのも難儀だ。








母の脳内出血でも母の難儀は雅子とわたしと二人の介護で補っていた。
その介護が二人の右腕の支障で補いがつかなくなり、訪問介護者の支援で対応することになる。








母にとっては幸いだった。
無言の介護が優しい言葉かけの介護になったからだ。






犬も人もよく知っている優しい言葉かけしてくれる人に心が開く。







私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださった。







ダニエルのような犬でも、二度の脳内出血の脳障害を持つ母でも優しい愛にあふれた人を知っている。

然しわたしたちがまだ罪人であったとき、私たちのために死んでくださったナザレのイエスの神の愛を二人のようには意識していない。







昨日の留津さん宅の家庭集会で輪読した聖書






へブル13章1~16









ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。










山里牧師はわたしたちに尋ねました。

「賛美」とは皆さんはなにを神に賛美することだと思いますかと。





わたしは言った。
蛙や鳥のように生きている喜びの声です、人は音楽,言葉、詩で喜びを他者と共有します。すなわち共生の喜び一神に創造された人間としての本来の姿の現れだと。








牧師は聖書から









賛美はいけにえ。すなわち


善を行うことと、持ち物を人に分けることと。神はこのようないけにえを喜ばれると。








兄弟(人間・隣人への)愛をいつも持っていなさい。





三隣亡は突然いやなことが降ってわいたように襲ってきて
不幸にみまわれたように感じる … ものだ ・・・・ 。






それと同じようにキリストの愛もまた突然わたしたちに訪れ



隣人をとおしてダニエルや母のようにその真実の行為・愛に触れて
神を賛美する。









Chateau Cap  De   Faugeres 2011




ワインのようにその味わいは心地よく聖霊に満たされて酔ったように人々は他者が理解できる
言葉を語りかけて愛を共有する。














2014年6月2日月曜日

聖霊 救い主 自由について


五月の母の日常をピックアップ。すでに六月に入りました。
ダニエルとフィラリアの予防のため矢野動物病院へゆく。




ずうっと聖書に書かれている、オリーブ山でイエスの昇天の折ぽかぁ~んと天を見上げている弟子たちのように、あなたたちはいつまで天を見上げているのですかと白い衣を着た二人の人に言われた同じ状態で、主イエスが語られた、『聖霊があなたたちの上に臨まれる時あなたたちは力を受けます』この言葉について考えを巡らせていた。



聖霊があなたたちの上に臨まれる時あなたたちは力を受けます。そしてイエスの証人となる。






主の御霊のあるところ。この自由について考えていた。






ハンナ・アーレント 過去と未来の間 政治思想への8試論
自由とは何かより抜粋




自由は人間が所有するものではない。人間、より適切にいいかえれば、世界のうちに人間が到来すること、このことによって自由は宇宙のうちに現れる。つまり、人間が自由であるのは、人間が一つの始まりだからであり、宇宙がすでに出現した後にそのように創造されたからである。「始まりが存在せんがために人間が創られた。この始まり以前には何者も存在しなかった」 (Initium ut esset, creatus est homo, ante quem nemo fuit.)




人間が一人一人誕生するごとに、この最初の始まりはあらためて確証される。なぜなら、そのつど、すでに存在し各人の死後も存在し続ける世界のうちに、あたらしい何かがもたらされるからである。人間はそれ自らが始まりであるゆえに、始めることができる。人間であることと自由であることはまったく同一の事柄である。神は、世界のうちに始まりの能力すなわち自由を導き入れるために、人間を創造したのである。





新しい始まりは、本性そのものからして、「およそありそうもないこと」としてそのつど世界のうちへ割って入る。しかもわれわれがリアルと呼ぶあらゆる物事の成り立ちそのものを実際に構成しているのは、まさにこうした「およそありそうもないこと」である。われわれの存在全体は、究極的には、一連の奇蹟、いわば、地球に存在者が生まれ、そこで有機的生命が発達し、動物の種から人類が進化したという奇蹟に基づいている。



どれも「およそありそうもないこと」であって、日常語にいう「奇蹟」にほかならない。人びとが恐怖や希望を抱きながらどれほど予期していたにしても、ひとたび出来事が起こると驚きの衝撃が走るのは、すべてのリアリティに現前するこうした「奇蹟的なもの」の要素のためである。




出来事の衝撃そのものはけっして完全には説明されえない。出来事の事実性は原理的に一切の予期を超えている。われわれが出来事を奇蹟として受けとめる経験は、恣意的なものでもなければことさら知性を必要とするものでもない。それは、反対に最も自然なもの、しかも実際にほとんどありふれた日常生活の経験である。このありふれた経験がなければ、宗教が超自然的な奇蹟にあてた部分もほとんど理解不能であったろう。




自然の過程が「およそありそうもないこと」の到来によってさえぎられる事例を選んだのは、われわれが日常経験によってリアルと呼ぶもののほとんどが、小説よりも奇なる偶然の一致によって存在するにいたったことをわかりやすく示すためである。もとよりこの例には限界があり、人間の事柄の領域に単純に適用できるわけではない。歴史ないし政治の過程が自動的となっているところに、奇蹟つまり「およそありそうもないこと」を待望するのは、完全には退けえないにしても、まったくの迷信だろう。しかし、歴史は[たんなる自動的過程ではなく]自然と対照的に出来事に充ちている。この領域では、偶然や「およそありそうもないこと」としての奇蹟が頻繁に起こるために、奇蹟を口にすること自体が奇妙であるように思える。





しかし、このように奇蹟が頻繁に起こるのは、歴史の過程が人間のイニシアティヴ、つまり、行為する存在者としての人間のもつ始まりイニティウムによって創造されしかも絶えず妨げられるからにほかならない。したがって、政治の領域において、予見不可能なもの、予言不可能なものを念頭におき、「奇蹟」にそなえそれを見込んでおくことは。迷信どころかリアリズムの勧告ですらある。天秤が凶事に傾けば傾くほど、自由に為された行いはそれだけ奇蹟的なものとして現れる。




というのは、つねに自動的に生じそれゆえつねに抗しがたく映らざるえないのは、救済ではなく凶事だからである。




客観的にみれば、すなわち、人間は始まりであり始める者であることをまったく度外視して外から眺めれば、明日も昨日と変わらない確率はつねに圧倒的である。この確率はたしかに絶対的ではないが、地球が宇宙の出現から生じなかった確率、生命が非有機的過程から発展しなかった確率、人間が動物の生命の進化から姿を現わさなかった確率にほぼ等しい。




われわれ地球の生命のリアリティが基づく「およそありそうもないこと」と、歴史的なリアリティを樹立する出来事に内在する奇蹟ともいえる性格との間には決定的なちがいがあり、われわれは人間の事柄の領域においては「奇蹟」の作者を知っている。




奇蹟を実演する人びと、自由および行為という二つの天分を受けとっているがゆえに、自ら自身のリアリティを樹立できる人びとなのである。





イエスは立って大声でいわれた。







「わたしを信じる者は、聖書が言っているとうりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」