2013年6月11日火曜日

Brut Cuveee Royale Cremant de Bordeaux


 
昨日は訪問診診療の日であり伊藤医師は脳以外は病気はなく健康とのこと。
 


 



栄子が毎朝、母のトイレの介護を援助してくれる。
午後から東佐野病院の父のもとに行き食事の話し相手をしている。




別れの時の近づいているのを介護することで備えている。




雅子は、はやく天国に行くことを祈っている。



時が来れば、隠れていたものがすべて明らかになる。
いつまでも残るのは信仰と希望と愛です。




キュヴェ・ロワイヤル クレマン・ド・ボルドー ブリッドを夫婦でいただき
行商の魚屋さんの肴と貝塚聖書教会の前にできたイオンの肉をあてに昼を過ごしている。






悠子が去って二・三日前から歯が痛み出してくる。









 

2013年6月9日日曜日

放蕩息子




神の偉大さは明白な事実です。人がどんなに頑張っても、月と星を配置し、季節を地に巡らせ、山の小鹿の出産に立ち合い、土深い虫たちの命を育むことはできないからです。






放蕩息子を赦す神の愛は人を愛するその愛の受容のおおきさを語っている。
牧師はそれゆえ恵み深い神の愛のみ前に罪を悔い改め、許されて神の御心にすべてをゆだねて生きようと薦めて説教が終わる。





それにもかかわらず、わたしが神と等しく、神に語ることが出るのは、なにゆえだろう。

牧師はそのことを見逃している。

放蕩息子の神の偉大さを語ることは、人が神の偉大さにあずかっていることを忘れている。 

人は、いつでも再起することの素晴らしさに、神の御心があることを牧師は見逃している。
死んでいたものが生き返ったのだから祝おうではないか。





イエスの十字架の贖いは、いかような罪人についても、罪を悔い改めて人生を始めることが出来る証しである。



神が崇められる栄光は同時に人が卑しめられてはならない。
人が神に開放される喜びと不可分である。

今日の説教は神の愛と人の愛と比べてなお神の愛は誰に対しても受容の大きさに圧倒されることを語り、だから、偉大な創造者(神)に愛されているのですから神のみ前に人が己の罪を悔い改め神の導きにゆだね神を崇めるようにで終わる。人のつぎが語られず終わる。

わたしは牧師に神の栄光は同時に人が卑しめられてはならないと、(人が神に開放される喜びと不可分であると)何遍も語っている。








イエスの十字架の痛みは神の痛みであり、その愛の偉大さゆえに、あなたはどんなところにおいても再びやり直すことが出来るという事とに結びつく。

人は神の愛の偉大さのゆえに再び再起できるのでなければ、神の死は人と何ら無関係なものになって死んだままになってしまう。




然しイエスは死者の中から復活するのです。







キリスト者はイエスの復活にも預かり生きているのです。

神の偉大さを賛美することは、人はいつでも始めることのできる新しい創造を神から与えられていることと一体表裏の関係なのです。




 

2013年6月8日土曜日

魚屋さんが来る土曜日

 
 
母親の人生とわたしの人生の対話。

悠子の娘の人生とわたしの人生の対話
わたしには対話が暴力(自己愛)にしか過ぎない、精一杯の人間の愛の愚かの中に

神の愛の偉大さに、圧倒されている。
 
 
 



 

2013年6月6日木曜日

雅子は京都へ



雅子は京都に、わたしとダニエルは母と自宅に。

悠子との関係がしっくり行きません。

森さんも、奥ケァーマネージャさんも暴力はいかんよ。

暴力はいかんと説教されてわたしは暴力はいかんのが解っていますが、

それでも悠子の顔を思い切り殴ってしまう、性来の悪いわたしがいる。

山頭火に、なぐさめられる。
どうしようもないわたしが歩いている。






 

2013年6月3日月曜日

主の日教会にて



エペソ一章一節から十四節
パウロは冒頭から神への賛美を捧げて。
神の栄光はキリストにあってあまりにも豊かであると告白していました。
パウロ自身、ダマスカスでイエスの御声によってモーゼとイスラエルの神は己の思いをはるかに超えておられることを思い知らされている。







パウロの実感をわたしたちは聖書によって日常の暮らしで再体験することになる。

アブラハムやイサクやモーゼの神は私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようとしておられることに牧師は感動していました。





聖霊を受けたからです。
パウロと同じように聖霊を受けて神の真実を知ったのです。






日々人々の暮らしで聖書にあるパウロの言葉を、
わたしたちは体験出来ると神が証されているのです。






木岡さんは夫と死別後、自宅を売却して一人マンションで暮していたが今はそこ出て老人ホームで暮らし始める。
なんでと尋ねると、一人で天に召される暮しのために選択したとのこと。





結婚して所帯を別にしている娘さんに心配をかけたくないという事が心の奥にあるらしいが、娘さんに気を使うことはおかしいと岡本さんは言う。「わたしは、一人で暮してそうして死んで行っても本望です。だから誰も私のことを心配せんといてと言っている。」




先日米寿をお祝いした松田さんは「そろそろ死ぬこともあると考えせんとアカンと思っている。いつ死ぬかわかっていたらいいんやけど」と言っている。

内田さんは、「イエスさんは天であなたがたの住まいを準備したらもどって来てお迎えすると行ってはるから、まだお迎えがないのは準備できていないんやわ」と思っているという。





教会に行けば、それぞれ人の言葉に出会う。
悠子の後輩が近々結婚するという。
教会の受付にいた婦人がいつも夫に頼っていたのが、
単身赴任中の夫に相談できずに娘の緊急の病に際して
自分がしなければならない決断の重大さを思い知ったとのこと。






先ほどの結婚する息子の父親は遠く離れて暮らしているので
なにごとも具体的に身近に感じられないという。






透析で週三日病院に通っているが、透析を受けている心境を同じ病になって死んでいった学生時代の友人が優しくしてくれて嬉しかった思い出が、今同じ病になってまた慰められている感覚であるという。

キリストにあって自身の病と向き合う言葉をお聞きしたいと思っている。




悠子も母になるだろう。母親にこどもが誕生するように、
いろいろな子どもの親の死と別れもある。





わたしは日常で死を語る人がいることが今はなにより嬉しい。
教会でも日本の社会でも死を迎える人々が身近にいる、
身近な人をみなくて避ける祭司やレビ人には聖霊は真実な言葉を
顕さないだろう。











 

2013年6月1日土曜日

水無月




水無月は天に水のない月。地に水があふれているので、
天では水が枯れ果てているのだろう。





地上の母の衰えは、天では今が誕生の時を迎えている。





主のご降誕によって天と地が結ばれ、




一人の人の神の恵みによって天と地が喜び歌い始めます。




祈りによって愛する人が天でも憩うことが出来るように。





水無月は天と地が結ばれている関係をよく現している。








天の父の慈愛が地に満ち溢れているように、人の真心も天に顕れている。







雨の中の蛙の歌声が天使たちの賛美と一緒になって聞こえる季節。
母の精いっぱいの生への営みも天使たちの営みと重なって父の栄光を現している。