2017年7月23日日曜日

水蓮と金魚とダニエル



可愛い愛らしいものを見つめていると平和な気持ちになる。







過去の確かさの消失━
人間存在の深さの次元が奪われることを意味する。
なぜならば記憶と深さは同一である、というよりもむしろ、
想起がなければ人間にとって深さは存在しないからである。
ハンナ・アーレント




愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
すべての聖徒とともに、
その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを
理解する力を持つようになり、
人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。
聖書





金魚の池に水連の花が咲きました。




ダニエルと過ごした出来事を想い起します。



過去が現在の記憶のなかにとどめられて初めて、過去という時間が存在する。

アウグスティヌスが、「すべての過去のものは未来のものから追いはらわれ、すべての未来のものは過去から継起し、すべての過去のものも未来のものもつねに現在であるものによって造られ、そこから流れ出る」と述べるのは[アウグスティヌス 1976:109]、

過去が心象として現在の記憶のなかにとどめられて初めて、過去という時間が存在することを伝えるためであった[see Arendt 1996:15]。時間内に存在するかぎり、現在がつねに未来によって「もはやない」へ追いはらわれ、そして究極的な「もはやない」へと死に急いでいるかのようなひとにとって、過去を記憶という魂の働きによって想起することは、「なによりも、集め直すこと/回顧 recollection である。つまり、「分散/散在 dispersion したわたし自身を集めること」」を意味してるのだ[ibid.:48]。

 

神のみが永遠であり、変化を知らず、それゆえ神を愛することは、将来において失われるかもしれないという恐れから自由な、本来の愛である。
だが同時に、神の永遠に与ることは、ひとがこの世界で享受し得る幸福ではなく、むしろ、現世を否定し、幸福な未来を切望することを意味している。
 
しかしながら、なぜひとはそのような「いまだない not yet」幸福、つまり未来の幸福を現在知っているのであろうか。アウグスティヌスによれば、ひとは、世界に誕生したという事実、つまり、世界にひとが生まれてくるのは創造主によってひとに存在 being が与えられた、という事実を記憶しているからに他ならない。
 
つまり、その過去の一瞬に神の意志によって存在を与えられたという喜びの記憶こそが、未来にもまた幸福が回帰することを期待することを可能にしている[ibid.47-8]。


  さらにまた、万物が神によって無から創造されたというキリスト教の教えは、永遠の存在 being を希求しながら、永遠ではない-つまり、ギリシャ的な全体、普遍なるものを意味しているコスモスとは相容れない-世界において生きなければいけない、という事実をアウグスティヌスに突きつけ、ひとは「ある being」者ではなくむしろ、時間の中で変転を繰り返しながら「なる becoming」者という意識をもたらした。
 
すなわち、つねにひとは、「もはやない no more 過去」と「いまだない not yet 未来」のあいだで生きており、ひとの一生ですら、世界には「いまだない not yet」状態から、世界には「もはやない no more」状態のあいだでのみ存在しているのだ。
 
アーレントの言葉によれば、「実存 existence に招き入れられ、そしてまた過ぎ去っていくといった可変性のなかで生が捉えられるとき、つまり、まったくの存在 altogether being でも、まったくの非在 altogether notbeing でもないものとして生が捉えられるとき、生は、関係性の様態のなかで実存している。

 ( 人間の条件と物語論の接点より 岡野八代)


  
ニエルを思い出すように

紀元30年にゴルゴタの丘で死刑執行された

  ヘブライ語: יהוה‎) 有(なら)しめられる方   



わたしを覚えて行いなさい  と言われるかたを思い出します。









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