2019年10月27日日曜日

主の日の憩い

安息日を覚えてこれを聖なるものとせよ
 


 
「安息日は人のためにあるのであって、

人が安息日のためにあるではない」




安息日は人が奴隷状態から自由を得る日。


わたしは雅子と久留米キリスト教会で主の自由に憩いました。

  
前奏
招詞 箴言3章5-6節
賛美 神の招きに導かれ
祈り



交読文 詩編40篇
賛美  天にいます わたしたちの父
歓迎と報告
主の祈り


聖書 マタイによる福音書 4章1-11節
宣教 主の祈り⑦ 我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ
祈り
賛美 132番主よ、おことばをください



献金
賛美 674番 「父 御子 聖霊の」
祝祷
後奏


午後。下牟田公園でメルと憩う。

 
 

ヨシアがエリコを陥落する前に割礼という神さまの御心に従う共同体に徴をつける儀式を行いました。


エジプトを脱出したイスラエル/へブル人の民に再び自由(の御霊)の在りようを確認する儀式が執り行われました。
 
このことは、神様にとってとても大切な事柄であるのでしょう。



それは人々の共同体の自由という徴の実態にあります。つまり人々に神の徴である自由とは何かという  
真実を再度わたしたちにも共感共有させるためです。







人類の創造の始めから神の息を吹き込まれたわたしたちに

神は私たちのうちにある霊が自由に主に応答することができ、その時はたして神は私たちに希求されていることは何なのかの


再度確認できるように徴をつけられたとも言えます。




それは共同体と個人の自由の徴である神の愛が地上の共同体に


聖書に書かれたイスラエル/へブル人の歴史を通してエジプトの
奴隷の状態から自由な状態にある人びとの共同体に必要なものは

なになのかを人々に知らしめる人類共通の認識となるためのものでした。






多くの為政者とその指導者に率いられる各々の国民にも、
奴隷状態(偶像礼拝)虚偽から解放されて真実な状態へと

現実の変革の契機となるために、聖書を通して神の知恵に
眼を開くための贈りものに思えます。

神は実にそのひとり子をお与えになるまでに世を愛された。
 



自由とは日本国憲法のもとにある国民のごとく自らのことを
自ら決めて始めることができる一人ひとりの主の自由の御霊にあります。

天の御国のごとく神さまのみこころがなるように
一人ひとり自由な選択と意志の決定にあるのです。 

一人ひとりの自由と選択の決定を持つ個人は多種多様な

人格を持った個人の集合の共同体です。   

 





多種多様な人格を持つ個人が等しく主イエスの御前に膝を屈め頭を垂れる。

とはそれぞれの人格が不完全であり。且つ神の憐れみゆえに不自由なまま
歩み出すのが良しとされるという赦しにあります。
 
誰もが誇ることのない相互性において(神の恩寵ゆえの)多種多様性が
良しとされるこの恩寵の共通認識にあります。
    




ゆえに神はだれもが等しく自由に応答することの相互性を希求されておられる。

すなわち奴隷ではなく自由人としてその共同体を構成しそして

そのメンバーである一人ひとりを自由人と呼ぶにふさわしい罪
(不自由)贖うために主の霊を注いでくださったという真実に

わたしたちは気づかなければなりません。


 

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