詩篇第8篇
指揮者のために。ギテトの調べに合わせて。ダビデの賛歌
8:1 私たちの主、主よ。あなたの御名は全地にわたり、なんと力強いことでしょう。あなたはご威光を天に置かれました。
8:2 あなたは幼子と乳飲み子たちの口によって、力を打ち建てられました。それは、あなたに敵対する者のため、敵と復讐する者とをしずめるためでした。
8:3 あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、
8:4 人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。
8:5 あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。
8:6 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました。
8:7 すべて、羊も牛も、また、野の獣も、
8:8 空の鳥、海の魚、海路を通うものも。
8:9 私たちの主、主よ。あなたの御名は全地にわたり、なんと力強いことでしょう。
創世記
8・20 ノアは主のために祭壇を築いた。そしてすべての清い家畜と清い鳥のうちから取り、焼き尽くす献げ物として祭壇の上にささげた。
8・21 主は宥めの香りをかいで、御心に言われた。「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。
8・22 地の続くかぎり、種蒔きも刈り入れも寒さも暑さも、夏も冬も昼も夜も、やむことはない。」
9・1 神はノアと彼の息子たちを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちよ。
9・2 地のすべての獣と空のすべての鳥は、地を這うすべてのものと海のすべての魚と共に、あなたたちの前に恐れおののき、あなたたちの手にゆだねられる ...........
........。
9・16 雲の中に虹が現れると、わたしはそれを見て、神と地上のすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた永遠の契約に心を留める。」
9・17 神はノアに言われた。
「これが、わたしと地上のすべて肉なるものとの間に立てた契約のしるしである。」
聖書はアダムやノアの子孫である人間になにを語ろうとしているのか
一つの答えが
中澤啓介宣教牧師 (大野キリスト教会)のネットに掲載されている
ヘブル2章を正しく読み新し福音理解を提唱するより 明らかにされる。
ヘブル人への手紙 2章 6-13 節を理解する。 より抜粋
ヘブル人への手紙 2章 6-13
むしろ、ある個所で、ある人がこうあかししています。
「人間が何者だというので、これをみこころに留められるのでしょう。
人の子が何者だというので、これを顧みられるのでしょう。
あなたは、彼を、御使いよりも、しばらくの間、低いものとし、彼に栄光と誉れの冠を与え、万物をその足の下に従わせられました。」
万物を彼に従わせたとき、神は、彼に従わないものを何一つ残されなかったのです。それなのに、今でもなお、私たちはすべてのものが人間に従わせられているのを見てはいません。
ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。
イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。
神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。
聖とする方も、聖とされる者たちも、すべて元は一つです。それで、主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、こう言われます。
「わたしは御名を、わたしの兄弟たちに告げよう。教会の中で、わたしはあなたを賛美しよう。」
またさらに、「わたしは彼に信頼する。」
またさらに、「見よ、わたしと、神がわたしに賜わった子たちは。」と言われます。
(ヘブル2:6-13)
著者は まず 、人間とは何者なのか問いかけ 、 詩篇 8篇を引用 します (6節) 。
その詩篇では、 人間が他の 被造物を支配する存在として造られたことが告白されています (7節) 。
ところが著者は、現実に生きてい る人間は今なお万物を支配していないという 事実を指摘 します (8節) 。
しか し著者はそこにとどまら ないで 、人となられたイエスだけは別だと宣言 します (9節) 。
人間 となられた イエスは 、死と 復活を通して、万物の支配者とな られたと続けます (9節) 。
著者はさらに、 イエスの死はそれだけでなく人間に 「すべての被造物の支配権 」を回復させたと解説します (10 節) 。
そして、 そのことのゆえに キリスト者 がイエスの兄弟になり、神の子になったことを、旧約聖書引用しながら明かにします (10 -13 節)
さて旧約聖書を引用しながら明かにされたものは何でしょう。
そのことを明らかにします。
どの註解書であっても、 「キリスト が十字架の死を通して被造物の支配者になったこと 」 についてはきちんと読み取っています。
確かに、 被造物に対する キリスト の主権性は、死と復活によって確立されました。
このことはても重要なことで、すべてのキリスト者と教会が、 受け入れ、告白してきました。
問題は、このヘ ブル人への手紙 2 章を読みながら、 そこに留ま ってしまっていることにあります。
どうして、 「キリストの死が、救いを受けたキリスト者に被造物の 管理権を回復する 」という メッセージ にまで至らな かったのでしょうか。
これは 、とてもおかしなことです。もし キリストの主権性だけの話であれば、十字架は 必要 ありません。もともとキリストは、全被造物の創造者であり、支配者であり、相続者でした(ヨハネ 1:1 -3、コロサイ 1:15-17 )。従って、全被造物の主権を確立するのに、受肉、十字架 及び 復活 は必要 のないことでした 。人間の 管理権の回復 のために、 受肉、十字架、復活が 必要だったの です。
それに、 7-8節において 、ヘブル人への手紙著者がわざわざ詩篇 8篇を引用しし ていること いること を忘れないで ください。
詩篇 8篇は、人間が創造時に与えられた「 被造物の支配権」を 謳ったものです。
決して、人となられたキリストを 謳われた ものではありません。
中澤啓介宣教牧師みごとなヘブル書の解き明しでしょう。
さて人間が創造時に与えられた「 被造物の支配権」の回複は、わたしは聖霊により
クリスチャン一人一人の祈りのうちに言葉(神の知恵)を与えられもたらされるものと思うのです。
キリスト者(人間)はお相い被造物として、キリストに贖われた関係/創造された支配管理のあり方、すなわち被造物の自由な関係のあり方を今も神に求められ問われているのです。
一人一人の出来事を自身の今を(聖霊とともに)生きることで人とともに日々行為して言葉で確認し合ってゆく外ない。公的領域の本性によってわれわれに要求されている。
「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」
ヨハネ3:6
アーレントは
支配すると言うギリシャ語のアルケインについて興味深いことを述べます。
ギリシャ語のアルケインは、始めること、導くこと、支配すること、要するに自由人に顕著な特性を含意しているが、この言葉は、自由であることと新しいことを始める能力とが一致する経験があったことの証しである。
今日のいい方でいえば、自由は自発性において経験されたのである。
arkh- = 第一番目
ギリシャ語 arkh- 、arkhē (最初)、arkhein (支配する)、arkhos (支配者) などに共通する 。
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