この女は、自分にできることをしたのです。
埋葬の用意にと、わたしの体に前もって油を塗ってくれたのです。
マリアの注いだナルドの香油は300g300デナリ。
当時の一日の労働者の日当が1デナリ。私と雅子の年金も当時の労働者と同じだと感じた。
ほぼ一年分の収入に相当する香油をイエスに注いだ。
ともに今ある時を精いっぱい生きている。
だから明日のことは明日が心配します、今日は今日の時を感謝して生きるのです。
ゲッセマネで祈られるイエスさまはきっと素敵な香りをしていたことだろう。
シモン シモン 見なさい。
サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。
しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、
あなたのために祈りました。
だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。
イエスはまた現在のシモンに言われています。
ナルドの香りとともに、
立ち直ったら兄弟たちを力づけてあげなさいと。
主よ兄弟たちとはいったいだれのことですか。
かつて隣人とは誰のことですかと主に尋ねた人々のようにその範囲を尋ねてみれば、今回も主はエリコの街道の良きサマリア人を示されることだろう。
だれがこの人の隣人になりましたか、あなたも行って同じことをしなさいと。
パッションウイークはわずか一週間、そこには
聖書のすべてが私たちの目に現されている。
目の前のナザレのイエスの一週間の出来事を見ることで父を見ることができます。
神を信じるとは、偏見を捨て、神がご自身を示される具体的な
み顔を受け入れることです。とベネディクト16世は語ります。
すなわち、ナザレのイエスという人間を受け入れることです。
この道はさらに、他者のうちにイエスを見いだし、
イエスに仕えることへと導きます。
かれはまた次のようにも語ります。
経験
の道を歩みなさい。 すなわち、日々、へりくだって、信仰を経験しなさい。とそれは
理性が神の美しさを仰ぎ見ることができるようになるためです。
さらに語ります。
人間は関係的な存在です。
他者には、そのあり方と生き方が
自分と大きく異なる人も含まれます。
世の罪を償うために
自分をお捧げになった主に至ることが重要だと思います。
神の言葉は
つねに私たちの能力を凌駕します。
そのためこの御言葉を理解し尽くすことは決してできません。
『 ベネディクト16世のこの理解し尽くすことができないという表現は人間に絶望の時にも希望や可能性が開かれ、閉じられていないことを言っている。み言葉は新たな認識と始まりを私に神が示していてくれる。』
あなたはどんなところからでも立返り、新しく始めることができる。
悠子の保育園への送迎を松田家に託してからすでに25年が経つ。
それは神のことばに出会ってともに過した人生でもあった。
悠子は自由気ままに、
京都でひとり過ごしている。
子育てに建てた家は役目を終えて
わたしたち夫婦が次にあゆみ出すことを後押ししているのだろう。
絵画の引き取りを画廊に頼んだら、ブラジリエとビッフエは購入時の半値の値がついたが、
ジャンセンと亀田正一の絵画には値がつかなかった。
絵画もその時代に、ちやほやされているうちが花。
やがて厳しい時の審査を受ける。
わたしたちもおなじ、時のうちで
試練にあい磨かれ淘汰され、
輝きを増す人もいれば、弱り果てて倒れる人もいる。
イエスは言われる。
わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、
岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。
雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。
わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。
雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。
しかもそれはひどい倒れ方でした。
わたしの家をもって証ししています。
イエスの言葉をきいて実行しなかったものの行く末です。
雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。
主の御前にこうべを垂れて、一歩を踏み出そう。
み言葉を行う勇士になれるよう勇気をもらおう。
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