2013年8月14日水曜日

ポツダム宣言受諾と終戦


(ウィキペディアより抜粋)

ポツダム宣言(ポツダムせんげん、英語: The Potsdam Declaration)は、1945年(昭和20年)7月26日アメリカ合衆国大統領、イギリス首相、中華民国主席の名において大日本帝国日本)に対して発された、「全日本軍無条件降伏」等を求めた全13か条から成る宣言




日本はこの宣言を受諾し、第二次世界大戦太平洋戦争大東亜戦争))は終結した。




1945年(昭和20年)8月14日、日本政府は宣言の受諾を駐スイス及びスウェーデンの日本公使館経由で連合国側に通告、このことは翌8月15日に国民に発表された(玉音放送)。




9月2日、東京湾内に停泊する米戦艦ミズーリの甲板で日本政府全権の重光葵大本営(日本軍)全権の梅津美治郎及び連合各国代表が、宣言の条項の誠実な履行等を定めた降伏文書(休戦協定)に調印した。これにより、宣言ははじめて外交文書として固定された。




ポツダム宣言13条の内容




1. 吾等(合衆国大統領、中華民国政府主席、及び英国総理大臣)は、吾等の数億の国民を代表し協議の上、日本国に対し戦争を終結する機会を与えることで一致した。



2.  3ヶ国の軍隊は増強を受け、日本に最後の打撃を加える用意を既に整えた。




3. 世界の自由な人民に支持されたこの軍事力行使は、ナチス・ドイツに対して適用された場合に、ドイツドイツ軍が完全に破壊をもたらしたことが示すように、日本と日本軍が完全に壊滅することを意味する。





4. 日本が、無分別な打算により自国を滅亡の淵に追い詰めた軍国主義者の指導を引き続き受けるか、それとも理性の道を歩むかを選ぶべき時が到来したのだ。




5. 吾等の条件は以下の条文で示すとおりであり、これについては譲歩しない。執行の遅れは認めない。




6. 日本を世界征服へと導いた勢力を除去する。



7. 第6条の新秩序が確立され戦争能力が失われたことが確認されるまでの日本国領域内諸地点の占領


8. カイロ宣言の条項は履行されるべき。又日本国の主権は本州北海道九州及び四国ならびに吾等の決定する諸小島に限られなければならない。




9. 日本軍は武装解除された後、各自の家庭に帰り平和・生産的に生活出来る。




10. 日本人を民族として奴隷化しまた日本国民を滅亡させようとするものではない。捕虜虐待を含む一切の戦争犯罪人は処罰されること。民主主義的傾向の復活を強化し、これを妨げるあらゆる障碍は排除されるべきこと。言論宗教及び思想の自由並びに基本的人権の尊重は確立されること。





11. 日本は経済復興し、課された賠償の義務を履行するための生産手段、戦争再軍備に関わらないものが保有出来る。また将来的には国際貿易に復帰が許可される。



12. 日本国国民が自由に表明した意志による平和的傾向の責任ある政府の樹立を求める。この項目並びにすでに記載した条件が達成された場合に占領軍は撤退する。


13. 我々は日本政府が全日本軍の無条件降伏を宣言し、かつその行動について日本国政府が示す誠意について、同政府による十分な保障が提供されることを要求する。これ以外の選択肢は迅速且つ完全なる壊滅のみ。




7月27日、日本政府は宣言の存在を論評なしに公表した。ところが翌28日の新聞報道では、読売新聞で「笑止、対日降伏条件」、毎日新聞で「笑止! 米英蒋[28]共同宣言、自惚れを撃破せん、聖戦飽くまで完遂」「白昼夢 錯覚を露呈」などという新聞社による論評が加えられていた。また陸軍からは政府が宣言を無視することを公式に表明するべきであるという強硬な要求が行われ[26]、同日、鈴木貫太郎首相は記者会見で「共同声明はカイロ会談の焼直しと思う、政府としては重大な価値あるものとは認めず「黙殺」し断固戦争完遂に邁進する」(毎日新聞、1945年(昭和20年)7月29日




トルーマンは7月25日の日記で「日本がポツダム宣言を受諾しないことを確信している」と記載したように、日本側の拒否は折り込み済みであった[25]。むしろ宣言のみによる降伏ではなく、宣言の拒否が原子爆弾による核攻撃を正当化し、また組み合わせて降伏の効果が生まれると考えていた[25]8月6日には広島市への原子爆弾投下が行われ、同市における甚大な被害が伝えられた。また8月9日(日本時間)の早朝にはソ連が日ソ中立条約を一方的に破棄し、満州国朝鮮半島北部、南樺太への侵攻を開始(ソ連対日参戦)、ポツダム宣言に参加した。





8月10日未明になって昭和天皇のいわゆる「聖断」が下され、ポツダム宣言には「天皇統治の大権を変更する」要求が含まれていないという了解の元、ポツダム宣言を受諾するという回答が決定された。これは午前三時からの閣議で正式に承認され、スウェーデンスイスに向けて送信された[29]。また受諾方針については勅語の発表まで公表を行わないことにした[29]






8月15日正午、日本政府は宣言の受諾と戦争の終結を国民に発表(玉音放送)。なお、陸海軍に停戦命令が出されたのは8月16日である。 宣言受諾とその発表を巡っては国内で混乱が見られ、宣言受諾が決定したという報が入ると、クーデターによって玉音放送を中止させて「本土決戦内閣」を樹立しようという陸軍青年将校の動きがあり、15日未明に一部部隊が皇居の一部や社団法人日本放送協会などを占拠したものの、陸軍首脳部の同意は得られず失敗に終わった(宮城事件)。



宣言受諾後も、ソ連や中国との間で戦闘が続いた。9月2日、日本政府は米戦艦ミズーリの艦上で降伏文書に調印した。その後も各戦線に残存していた日本軍と中国軍・アメリカ軍との小規模の戦闘は続いた。


















2013年8月14日日本経済新聞 終戦記念日で官房長官が談話




政府は15日の終戦記念日を前に菅義偉官房長官の談話を発表した。政府主催の全国戦没者追悼式について「今日のわが国の平和と繁栄の陰に、先の大戦において祖国を思い、家族を案じつつ戦禍に倒れた戦没者の方々の尊い犠牲があったことに思いを致し、恒久平和への誓いを新たにしようとするものだ」と説明。「国民一人ひとりが戦没者をしのび、心から黙とうをささげるよう切望する」としている。











 

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