2022年11月12日土曜日

ガーデンプレイスに秋の森を抜けてゆく

 湾岸線を通って大山に帰って来る。




勝央を過ぎ院庄から美作に至る間に山陰に太陽が沈んでゆく。
雅子がパンを買ってきてというので昼食後ガーデンプレイスまで歩いて行く。
パンがなく明日入荷らしく、仕方がないので野菜と果物を買ったが重くて車で運ぶことにした。



ダニエルが水遊びしたガーデンプレイス前の公園。





歩いて帰るときTさんの家の前で声をかけられ呼び止められた。
二週間程前に奥さんが突然亡くなられたそうで慌ててドイツから帰ってきたと言う。さみしそうだった。
大成池公園の入り口に犬のふん放置の禁止看板が立てられていた。
美しい風景が台無しに見える。看板は入り口ではなく別の所に移してもらうようリゾートオフィースに申し出る。
昨日貝塚聖書教会を訪れて池尻さんが亡くなったのも知った。
親しい人が突然亡くなるのは無力感に襲われる。(多分主の視点からではなくわたしの視点から見るからだ。)

看板はガーデンプレイス往復の間に取り去られていた。いつもの美しい風景が戻っている

親しい人がなくなるのはわたしにとっていつもと違う風景に出会うからだろう。
なにかしっくりしなく落ち着かないのだ。
いつもの通りに違和感なく毎日過ごせることのありがたさをしみじみ思う。




然し主の御心は自分の視点にとどまらず主の視点へと変化してゆくことを望まれているようです。動揺することでいままで見たこともない新しい領域(主の視点)がもたらされるからです。多様な人々の意見に動揺すること、やがて人々が受け入れる(誰もがいただいて満足する腹に落ちる)ことばが世に現れてくるのが民主主義の基本。
 

ああ主の御心は深くそのみ恵みは人々には計りがたし
Tさんが私に話りかけてきたのはわたしも彼と同じように(彼の妻)隣人を愛していると認識しているから。リゾートオフィースの人々が犬のふんの看板を取り去ったのは大成池公園を愛しているから。思いは同じだったということ、犬のふんごときで汚したくない思いは同じ。
今回の大山から大阪までの旅で大阪の街を写しているのはそこで暮らした四十年の記憶(生活)を、ゲートタワーホテルに滞在したのは泉州に暮らした六十年の記憶(生活)を、JCB社友会も友人との会食も、貝塚聖書教会での祈りと餐も、大山で雅子と暮らす生活に確かな過去を想起する(recollect再び集める)復活の御力だったのを知る。

そこには四十年、六十年と愛された生活があったTさんがわずか七年のわたしに千古のごとく声を掛けてくださったようにまことに主(善き隣人)は人々を招いて懇ろにこれからも労わってくださる。
エリコの街道の真理を掴んだ旅でした。




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