母を訪問介護者に援助されてトイレと風呂に入れる。
介護の方は最近父を肺炎で亡くされた、私の母への食事の介護を見て(人権無視の介護で主治医と政府の人権の方から食事介護を非難されているが、誤嚥なく口から食事を嚥下している限り与えることは人権に沿わなくてもそれでいいと私は思っている)と日ごろの世間とのずれのやるせなさを述べる。
介護者のお父さんの場合。肺炎は口から食事が摂れないので胃瘻をしなければ栄養補給はできない、胃瘻拒否は死を受け入れることになったが家族でそれを選択したとの事であった。辛さはしみじみ私に伝わってくる。
私の母も母の意思に反して無理やりスプーンで口をこじ開けてラコールと牛乳を流し込む。その後は母自身の力で飲み込むことが出来るので今は有り難きかなそれを行っている。母は脳内出血で認知症状態となっている。正常に認識出来ないのが認知症、認知症は言葉の欺瞞である、世間によく聞こえる言い換え。すなわち自分で正しく物事を判断できないのが認知症の病名。よって私が母に代わって判断している。
自分の意思でイエスを主と仰ぐキリスト教の信仰告白は私には欺瞞に思える、人は聖霊によらなければ誰もキリストと出会えないとするなら神様の方ですでに人々に関わってくださっている。神の愛はあまねく人々に等しく無条件であたえれらていると私は思っている。
キリスト教入信の信仰告白の教会の資格(制限は)人の側の驕りである、自由意志で入信する事の尊重は理解できるがそこに人の思いや意思に関わらない、神の愛が人々の意思より前になされてるのだと私は強く思っている。
私の介護を神に託しなさいと京都のコイノニアの私市氏のアドバイス、母に無理やりしている口からスプーンで流し込む介護はいつ廃止すればいいのか、すなわち死を当然に迎えることを私は受け入れる頃合いを自身の意思決定に任されていいのか否か悩んでいると述べたときのことである。
『あなたがなにもしなくてもその時になると主がしてくれます。』
私たちの教会の私の愛する姉妹がメールを寄せてくれました。
「人それぞれ違いますが、私の乏しい経験では、24時間365日、介護には言葉で表現し尽くせない重圧と緊張と疲れ、命との向き合い、死の彼方にある希望がありました。あれはやった人でなければ実体験としてはわかりにくいかもしれませんね。きれいごとでは済みません。」
私は私と同じ経験を同じくした人々の言葉の中に慰めを得ます。人は人の中に真実を見出してゆくのでしょう。お互い不完全な人を愛しておられる神によって一人ひとりの命の(人生の)真実が支えられている。経験は同じくできなくても他者を思うこと/寄り添うことで、関心を持つことで(すなわちそれが愛すること)で私は可能であると思ってる。
神が母をとられる日まで訪問介護者の援助に支えられて母を介護して行こう。
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