2013年3月16日土曜日

福音は神の力



福音となんのことですか。
世間では良い知らせと言われています。
良い知らせとは何ですか。




イエスキリストの十字架の贖いです。





はあっ? ほとんどの人にとって ? がまだつつきます。





バチカンでは新法王フランシスコ一世が誕生しました。
私たちの貝塚聖書教会では山里将之牧師が誕生しそうです。






教会制度の指導者の誕生と私たちの贖い主とそこに何の関係があるのでしょう。








安息日は人のために定められたのです。
人が安息日のためにあるのではない。






このように語るナザレのイエスの言葉が

私たちは一人一人の上に聖霊として及んできます。





教会制度に私たちがあるのではない。

私たちは主の十字架の贖いの故に罪から自由になって

一人一人自由に存在するためにある。







自由ゆえに主の贖いの愛に応答するように私たちは集うのです。

イエスをキリストと崇め賛美するために。





よく主の僕と言う表現がありますが、わたしはこの言葉は私には当てはまりません。
イエスはわたし達に友と語りかけておられることで僕ではなりたちません。
神と友となり得る私たちです。






アッシジのフランチェスコ(伊:Francesco d'Assisi、ラテン語:Franciscus ssisiensis、本名 ジョヴァンニ・ディ・ベルナルドーネ Giovanni di Bernardone、1182年 7月5日 - 1226年10月3日)は、フランシスコ会(フランチェスコ会)の創設者として知られるカトリック修道士。「裸のキリストに裸でしたがう」ことを求め、悔悛と「神の国」を説いた。


彼の名を尊ぶ、カトリックの法皇となられるアルゼンチンのブエノス・アイレスで生まれの人にもイエスの霊が及んでいると私は信じている。






このようにして人はイエスにある聖霊によつて集い私たちの父の愛を賛美するのです。







放蕩息子は父の身元に帰ってゆく私たちの姿です。
娘の悠子の放蕩を愛を持って見守る両親のような愛です。






私はあなたの父と母を敬えという神の命令がなぜ十戒にあるのか不思議に思っていました。







私は悠子を失って初めて天の父の愛の深さを知ったのです。

あなたの父と母を敬えは、わが子にたいする父の愛に天の父の愛を重ねることがでる唯

一の現実に経験できる親の子への愛にあるからです。





人の子を愛する気持ちが唯一天の父の御心に等しいものだと語られているのだ

と思います。






母と父がわたしを愛してくれたように、私も悠子を愛しています。

この物語は人格としての悠子は当然親から自立するために親の愛を感じながらも

なお自由のために自らの道を求めることも自然であるという事も含んで語っています。





その時、両親は天の父のように放蕩息子を待つ心境になる。




福音はイエスキリストの贖い。





子である私たち一人一人は父の元から自立して父の愛を疎ましく感じていることから再度父と子の愛を確かめ合う関係に戻ることに素直になることを勧めているように思える。






天にいる創造主と和解することは、私たちの父と母と和解することにあるのです。
御言葉は語っています。あなたの父と母を敬いなさい。










それではどうなりますか




福音とはなんなのですか。





イエスキリストの贖いです。







創造主に祝福された人生を分かち合いながら生きることです。










 

2013年3月11日月曜日

訪問看護の日



主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか」。 (創世記 三章九節)




園の中央には。いのちの木、それから善悪の知識の木とを生えさせた。





神である主は仰せられた。「見よ。人は我々の一人のようになり。善悪を知るようになった。今、彼が手をのばしいのちの木からもとって食べ、永遠を生きないように。」








創世記の中に描かれた命の木とイエスキリストの永遠のいのちとそこに繋がりの予感がすのはわたしだけだろうか。






わたしはずっと考えてきたことがあります、善悪の知識の木のみが人がとって食べることができ、なぜいのちの木のみが食べごろになっていなかったのだろうかと。

見るからに食べごろになっていたのがいのちのみではなく、
善悪を知る知識のみであったのかという事。

これど摂理。神がそなえられたもの。




然し私たちには、神の時がいたり命の木のみは今が食べごろになっている。
と思えるのです。これも摂理、神がそなえられたもの。






善悪をしることはすでに人間には備わっているということから考えて罪は善と悪とは無

関係のように思われる。

牧師がよく語っているおのれの罪とは悪とか善とかではなく。

すなわち良心に背くことでもない、罪とは本来神のもとにいたところから絶たれている

こと。

いずれ生えてくるであろう永遠のいのちのみからも絶たれている、それにもかかわら

ず人が自らの手で食べようとすること(自己救済の欲求)が罪の本質である気がします
。

神も聖書の中で「自らの手で取って食べてはいけません。」と忠告していました。



永遠のいのちの木のみを自ら手を差し伸べもぎ取ろうとする、人の姿が罪の実態であ

るようにわたしには思える。







イエスの死と復活は、信じる者に永遠のいのちを与える神の創造の二幕めです。





今や私たちは善悪を知る知識の木のみと永遠に生きるいのちのみの両方を得るもの

になりました。





主なる神はおまえはどこにいるのかと尋ねます。





私に語りかけてくる他者に率直に応じること、
他者の言葉から身を引いて屈め隠れずに。
屈託なく返事を他者にすることが出来るか否かが
罪から解放された自由なものであるか否かのようです。





イエスは、わたしたちに見るからに香しいいいのちのみが今は食べごろになっていることを語り告げています。
キリストの死と復活は神の創造への復帰と永遠の命を得る二重の喜びの
成熟の時を宣言しているように思えるのです。











栄子は日曜日に教会に来なかった。父のもとであれこれ世話をしていたようだ。
軽い肺炎でホライズンから東佐野病院へ救急車で搬入され、抗生物質の点滴治療を受けている。

入院治療中ベッドで安静のため尿をとる管を膀胱へ注入していたのを父が自らの手で引っこ抜いて尿道を傷つけて血尿が多量に今も出ているらしい。



 
肺炎と膀胱炎の二重の治療になっている。
東佐野病院は泌尿器科がなく、万全の治療ができるのか否か栄子が心配している。
率直に治療可能か病院にたずねるように私は栄子に言うも、心境を害するのではないかと案じて尋ねられないのだそうだ。
 




それなら心配してもしかたがない、心配しないでおけばいいのに、父を心配する気持ちは募るばかりで栄子を二つに裂いている。





妹は那須にいる弟に電話してアドバイスをもらっている。

起こっていることを自分がどう捕え納得するかが優先され、自分の外で起こっている事にどう処置対処するかは、納得の後になる。






私たちはみんな自分の気持ちが納得するまで、自分の外にあるできごとにかかわるのを放置してしまう傾向があるようです。






私たちの性質の本来の姿です。






ただ私たちの外にある出来事が私たちの思考を決定してゆくことも
真実なのです。





難しいのはどのように納得するかが難しいのです。













 

2013年3月2日土曜日

弥生はじめに訪問者



 
「すべて新たに」―スピリチュアルな生き方への招待― ヘンリ・ナウエン著あめんどう社  

加齢するにつけ、本質に関心が深まりますし、
時間が与えられている環境下で真に生きようと願うものです。
当本は、満足できない焦りに対して二面から解き明かし、
神様との親密な交わりに導いてくれます。


日々の生活が神様との交わりで、真に満たされ溢れますように。
 
 
 



サンディエーゴに嫁がれた千賀子さんのパートナーからメールをいただく。



私が聖霊に関心を持ち始めているのを知って祈ってくれているのだ。
人に関心を持たれていることは何と快い安堵と喜びだろう。




早速ヘンリ・ナウエンの本をAmazonで取り寄せて読んでみる。
マタイによる福音書6章31~33節が冒頭目に入る。
神の国と神の義を求めなさい。然し彼の視点は・・・・・・・。



ナウエンは思い煩うな(思い悩むな)というイエスの語る
この極端で「非現実的」な忠告をすることで、思い煩うことなく、
すべてが新たに造り変えられていく生き方へ焦点を合わす。




私たちを真に自由な者として聖霊が再創造してくれるからです。




弥生初めに尋ねてくれた聖霊がまだまだつづきます。





留津さんです。
彼女の演奏するピアノの訪れ(お雛様のメロディ)も
部屋を幸せいっぱいにしてくれます。





高価な香水を無駄にするとユダに責められた女が割った香水のように
部屋の中に素晴らしい香りが満ち満ちます。
あかりをつけましょぼんぼりにお花をあげましょ桃の花・・・・・。




詩編121編、祈ります。




私の助けは、天地をつくられた主からくる。



聖霊は音楽のように心にとどく、ワインのように喜びで満たされる。



















今日雅子に昼飯を天麩羅にしてほしいと頼んだ。
久しぶりにアツアツの天ぷらとボルドーワインを飲みたくなる。
魚屋さんの新鮮な海老が今日の喜びを増してくれる。






神の国と神の義は私たちは私たちをかたちづくられた創造主に愛されているという事実に立ち帰ること。恵みの中を感謝し喜び日々人と励まし励まされて暮すことに尽きます。








イエス・キリストの十字架の贖は私になお神の愛の真実を証してあまりあります。
父の御顔はイエスであり具体的にわたしたちの経験の中でであうことに驚き喜びのあまり踊りだすほどです。他者とこのような関係を持つ経験は神の国の出来事でなくてなんと呼べばいいのでしよう。