悠子は新しい部屋で雅子と過ごしているだろう。
わたしはダニエルと二人で夜を過ごしている。
とまれ過ぎこす。
過ぎ越している間になにかいいものとめぐりあう。
こうなるとハッピーだが、
過ぎ越している間に、大切なものとも別れなければならないことがある。
過ぎ越していることが、大切なものとの関係を失ってしまう、時の残酷さに気づくことがある。
わっちゃわっちゃとやっている時が一番いい。
たいせつなひととはわっちゃわっちやとそばにいて暮らしているのがいい。
関わりのない人や死んだ人に、なんにも言えない。
ショパンの悲しさは関わりの喪失
ショパンの歓びは関わってくれた人への愛に満ちている。
あの純粋な響きは、過ぎ越した全てへのショパンの関係回復を手さぐりする響き。
わたしは権利回復には十字架のイエスと同様、普段の日常(現場)で発言することが肝心と思っている。
ショパンは現場を過ぎ越した。
戦後アメリカに依存し自衛権を過ぎ越した日本のように。
歴史の皮肉とも言うべきかロシアがポーランド人の権利回復を目覚めさせたように、北方領土問題も、北朝鮮に拉致された人たちの帰国実現もショパンのピアノ曲のように響いてくる。
ショパンは気づいている、
『目出度さもちゆ位也おらが春』
ひとの矜持。
ひとが望むことと、なにごとかが実現することと考えてみると。
そこに人がおのれのありたっけの力を注いでも、こころから望んでも、どうにもできない人の力が及ばない人を超えた力もあることを、人の限界を知っている。
それゆえショパンの響きはその力にたいしてもひとつもひけをとっていないところだ。
目出度さもちゆ位也おらが春。この詩もひけをとっていない。
人は限界があるが負けない。
二人にはそのことの矜持が現れている。
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