2012年11月2日金曜日
2012年10月30日火曜日
新しい契約を結ぶ日
■[エレミヤ書] 31章31-34節
31 見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。
32 この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。
33 しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
34 そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。
旧約聖書にかかれている来たるべき日の出来事が新約聖書にあらわされました。
キリストのみ霊の愛に生きる
「伝道する」とは キリスト者とは・・・・・・・
生活を御霊の祈りとなすことです。 と語っておられました。
その日マルコ9:14~29を朗読して。
弟子たちの力はからしだねの信仰にも及ばなかった山さえ動かせなかったわたしたちの信仰もその罠があると忠告されていました。
19 イエスは答えて言われた、「ああ、なんと不信仰な時代であろうか。いつまで、わたしはあなたがたのところにおられようかいつまで、わたしはあなたがたを耐え忍べばよいのか。
29 イエスは彼らに言われた、「このたぐいは、祈りによらなければ、どうしても追い出すことはできないのだ」。
わたしはこの聖句がなにを言っているのか解らなかったのですが、無意識に陥っている信仰者(わたし)の驕りに気づくようにいさめているのだと解りました。
真実を待ちます。聖霊の来る時を待ちます。
「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、 あなたがたは力を受けます。」
ところでベネディクト16世のことばに聖霊を感じるので記載します。
この神のみ顔はきわめて具体的です。それはイエス・キリストだからです。
証人とは、その人が他の人に示す生活をまず自分で生きている人のことです。
人間は神との関係において初めて、人間の自由の意味を理解できるようになります。
教育の使命は、人々に真の自由を教えることです。
人間の自由とは、強制がないことでも、自由意思が支配することでもありません。
それは自己を絶対化することでもありません。
人間は、自分は絶対であり、何ものにもだれにも頼らず、望みどおりのことができると考えるなら、
自分の存在の真理に背き、
自らの自由を失ってしまいます。むしろ、人間は関係的な存在です。
人間は、他者、とくに神との関係のうちに生きています。
神と無関係に真の自由を得ることはできません。
自然道徳法こそが公正で平和な共存の基盤となります。
それゆえ、自由を正しく用いることが、正義と平和の推進の中心です。 そのためには、自分と他者を尊重することが求められます。 この他者には、そのあり方と生き方が自分と大きく異なる人も含まれます。
このような態度が次の要素を生み出します。この要素なしには、平和と正義は無内容のことばにすぎないものとなるのです。
すなわち、相互の信頼、建設的な対話を行う能力、人をゆるす力
(人はたえずゆるされることを望みますが、ゆるすことは困難だからです)、互いの愛、弱者への共感、
進んで犠牲を払うことです。
31 見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。
32 この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。
33 しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
34 そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。
旧約聖書にかかれている来たるべき日の出来事が新約聖書にあらわされました。
先日わたしは、京都に行って新約聖書に現わされたイエスキリストの御霊に生きる日本人を訪ねてゆきました。
彼は
聖霊に導かれて聖書を読む
キリストのみ霊の愛に生きる
「伝道する」とは キリスト者とは・・・・・・・
生活を御霊の祈りとなすことです。 と語っておられました。
その日マルコ9:14~29を朗読して。
弟子たちの力はからしだねの信仰にも及ばなかった山さえ動かせなかったわたしたちの信仰もその罠があると忠告されていました。
19 イエスは答えて言われた、「ああ、なんと不信仰な時代であろうか。いつまで、わたしはあなたがたのところにおられようかいつまで、わたしはあなたがたを耐え忍べばよいのか。
29 イエスは彼らに言われた、「このたぐいは、祈りによらなければ、どうしても追い出すことはできないのだ」。
わたしはこの聖句がなにを言っているのか解らなかったのですが、無意識に陥っている信仰者(わたし)の驕りに気づくようにいさめているのだと解りました。
真実を待ちます。聖霊の来る時を待ちます。
「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、 あなたがたは力を受けます。」
ところでベネディクト16世のことばに聖霊を感じるので記載します。
この神のみ顔はきわめて具体的です。それはイエス・キリストだからです。
証人とは、その人が他の人に示す生活をまず自分で生きている人のことです。
人間は神との関係において初めて、人間の自由の意味を理解できるようになります。
教育の使命は、人々に真の自由を教えることです。
人間の自由とは、強制がないことでも、自由意思が支配することでもありません。
それは自己を絶対化することでもありません。
人間は、自分は絶対であり、何ものにもだれにも頼らず、望みどおりのことができると考えるなら、
自分の存在の真理に背き、
自らの自由を失ってしまいます。むしろ、人間は関係的な存在です。
人間は、他者、とくに神との関係のうちに生きています。
神と無関係に真の自由を得ることはできません。
自然道徳法こそが公正で平和な共存の基盤となります。
それゆえ、自由を正しく用いることが、正義と平和の推進の中心です。 そのためには、自分と他者を尊重することが求められます。 この他者には、そのあり方と生き方が自分と大きく異なる人も含まれます。
このような態度が次の要素を生み出します。この要素なしには、平和と正義は無内容のことばにすぎないものとなるのです。
すなわち、相互の信頼、建設的な対話を行う能力、人をゆるす力
(人はたえずゆるされることを望みますが、ゆるすことは困難だからです)、互いの愛、弱者への共感、
進んで犠牲を払うことです。
2012年10月26日金曜日
知性でも祈ろう。霊で賛美を歌うと共に、知性でも歌おう。」
栄子は母と最期まで一緒にいたい。
わたしに介護を託したのは自分一人で母を介護するのは限界に来たと判断したとのこと。
わたしに介護を託したが、母のそばを離れたくないので
今のような生活は不満。いつも母のそばにいて援助をしたいのだ。
いい妹だ。わたしが母の生活の維持に努め、妹は母のそばで母と優しく接する。
かつて母と妹と一緒に暮していた時、わたしは二人の暮らしの不自然さに口を出すと妹は戸を締めてわたしを追い出した。
父親も同じようにして二人は追い出した。そのことはわたしも同意していた。
その後生活の中に引きこもり、電話さえとらなかった。
母が脳内出血をお越し、自分の介護の限界にきてわたしに母の面倒をしてほしいと持ってきた。
それでも妹と和解の道を探らなければならない。
なにが許せないのか、わたしに託したことで二度目の母の脳内出血を妹は責める。
口を開かず食事をしない母に無理やり食事を与えるために殴って顎に黒い痣をつけたことが妹には許せないのだ。
病院に入院させて穏やかに施設で看病することを望んでいる。
妹のいう通りしていれば遠の昔に胃瘻をしているだろう。
今頃は病院を転々としてベツドで寝たきりで褥瘡に心を痛めているのが妹には見通すことができないのだ。
ホライズンの父にも教会にも行けず病院で死んでゆくのだ。
このことが見えない妹はわたしを責める。
自分は14日間も便秘させておいて永山病院へ緊急に行って脳内出血を起こしておいて私によく言えたものだ。
母をまともに布団をひいて眠らせておらず、部屋と言う部屋中をごみでうずめておいて、母の居場所を占領し、食事をつくらずスーパーの惣菜ばかりを与え、風呂にも入れずシャワーで済ませていた妹がよく言えたものだ。
父を追い出すのは理解できる、ほかの女のもとに泊まりにゆく生活はその女のところに追い出すに限る。
然し、父の不潔を嫌がるのは理解できるが、追い出すことより自分が父と母の家を出ようと思わないのだろうか、帰ってきた父をいつまでも毛嫌いするのではなく和解の道を探るのが本来の姿ではないのか。
何時まで経っても父に養ってもらいながら父のいるホライズンを訪ねることをしない妹が母にだけにすり寄ってゆくのは、片手落ちで善意ではなく自分の寂しさの甘えの善意だらしだ。
時にかなってすべてを解決してくれる。
ありがたかな母は既に主に託している。
ありがたかな父も主に託した。
既に二人の命は神がみている。
栄子が両親にかかわることは神にたずねてからにしてもらおう。
わたしにどうのこうのと愚痴を言う前に、教会のみんなと相談したらいい。
十字架のもとで家族と和解をしなければならない。
2012年10月21日日曜日
主の日
あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい。
自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさい。
ただ自分の敵を愛しなさい。
なぜなら、いと高き方は恩知らずの悪人にも、あわれみ深いからです。
栄子が肩が痛いらしい・・・・・・。
憐れみ深い愛に満ちた是澤さんに肩をほぐしてもらっています。
母は眠りこんでいます。
医者を必要とする病人のように、必要を求めてスーパーに来た。
医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、 病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、 罪人を招くために来たのです。
イエスを愛する者へ、御霊が働き、善へ向かわせる。
自分の必要と他者の必要へと、知覚の転化が関心に現れる。駱駝が針の穴をたやすく通り過ぎるのです。
2012年10月19日金曜日
2012年10月17日水曜日
あたりまえのありがたさ
昨日、悠子が京都へ帰るので貝塚駅まで送って行く。
その足で貝塚市民病院へ行く。
ホライズンの石田相談員と看護婦さんと父と秘尿器科の待合室でいた。
医師が肛門から指を突っ込み前立腺の腫れ具合を診たあと、癌はないようだという。
わたしは日赤病院の話を持ち出し癌の検査をお願いしたところ血液検査をすることになる。
至急の検査で
F/T比34.2 % トータルPSA15.824 ng/ml フリーPSA 5.407 ng/ml
トータルPSAは4~10以下が正常だから高いがそれでF/T比の値から見て一概に癌とは判定ができない。
肛門から指で触ったところあきらかに癌と解るものはないと思える。
癌だったとしても75歳以上の高齢者は貝塚市民病院では手術はしないとのこと。
血液検査で数値が高い部分があるので腹部前立腺をMRAで調べ細胞の組織を切り取って生検をすればよりはっきりと解るが、
検査は父には楽しいものではなくMRIの時は長時間拘束される。
検査するかしないかは家族さんの決定如何になるとのこと。
いまは症状が何もなく痛みもない。骨に転移していた場合はこんな数値ではないと断言する。
当面は健康で何も生活に問題がないので痛いような病気の症状がでてきたら対処するといい切り
これ以上の検査を断る。 父は腹がすいたといってホライズンヘ帰ってゆく。
今日の父の暮らしは、母と同じ、あることを選択した結果とも言える。
「光あれ」と言った。すると光があった。
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