2019年3月28日木曜日

コイノニア会三月の司会を大山の森で今度の土曜日に



Chateau Aydie Madiran 2012




残りものの 肉と蓮根とさつまいもとなすびを加えて
雅子は私の好きな海老の天婦羅をつくってくれた。



今度の土曜日にコイノニア会が京都会場で行なわれる。
わたしが司会の担当に選ばれている。大山の森でインターネットで参加することになる。

Chateau Frere Cadillac Cotes de Bordeaux 2010


 
インマヌエル
ヘブライ語で『神はわたしたちとともにおられる。』という意味。
わたしの日常でわたしたちとともにおられるの神を日常語で自分の事実として他者に語れるのかについて語ろうと思う。



そして今日二週間前ホックで買って冷凍していた牛肉と豚肉の6:4の割合のひき肉で雅子はハンバーグをつくってくれた。

堺市のワインショップおおはしからおくってもらったボルドーワインで、イエスの血を飲みイエスの肉をハンバーグを食べながら神の永遠の命をいただく。


おりしも内田樹の「日本人にとって聖地とはなにか」あとがきに「聖地」には強い力があります。だからこそ、人間はそれに惹きつけられる。
 でも、「超越的なもの」は当然ながら人間的射程を絶している。

その霊的な法外さを人間に対応できる枠内にとどめるために人間たちが思いついたのが「俗化」という手立てだった、と。僕はそんなふうに考えるようになりました。


僕たちが訪れる先が「聖地」と呼ばれるにふさわしいものであるなら、本来なら人間の賢しらをもって容易に接近し、理解し、制御することを許さない場所であるはずです。

それでもなお「聖地」からわれわれを霊的に賦活する力を引き出そうと願うなら、「聖地を慰撫する人間的な仕掛け」というものが必要になります。

流石内田氏の聖と俗の認識の誤りなさに感嘆するとともに俗化することなくすなわち偶像化、人間自らつくりだすのではなく人間が聖に与る主の道についてわたしは語りたい。


わたしは、人間から聖なるものに自らアプローチする必要はなく、人間は人間であり続けながら俗であるゆえに聖なる方からのアプローチを信じること、が人間を聖化してゆくと思っています。

聖なる方からのアプローチ(注1)すなわちイエスの血と肉を日々の食卓で食すことにつきます。そういう意味で悪しき日も善き日も健やかな時もな悩める時も日々是好日(聖地)です。


(注1) 主の食卓に与る
永遠の命をいきるのに必要な唯一の食べ物イエスの十字架の出来事を一緒に食卓を囲んだ人々とそれぞれ互いの口で味わい体に取り入れ互いの味わいを語り合い認識を深め心に深く留めて再び共同体が必要な時想起できる御力のこと。

 想起によって一つの言葉(体)に連なる連帯が生じる不思議な力の働きに圧倒されることが歴史上人々の現前に現れる。

 内田氏の言葉を借りるなら、「呪地を慰撫する神的な仕掛け」がすでにわたしたちに与えられていることになります。

ひとりのみどりごがわたしたちのために生れてくる。人間ひとりひとり始まりの力をもって生まれて来るゆえに呪地を聖地へと平和の地に変えてゆく力も聖霊とともにあるのです。

 

2019年3月24日日曜日

雅子とまた新たに森で暮らす

 
「あなたの死者は生き、彼らのなきがらは起きる。ちりに伏す者よ、さめて喜びうたえ。あなたの露は光の露であって、それを亡霊の国の上に降らされるからである。」
 
 
 
 
春を待つ森に白い雪が降る
 


若葉から木蓮が咲いた便りが届いたのに、雪が降る。






昼に降りだし、いったんあがっていたのにまた夜中に降りだした。









雪のなかにみ言葉を戴く。

あなたの死者は生き、彼らのなきがらは起きる。ちりに伏す者よ、さめて喜びうたえ。
あなたの露は光の露であって、それを亡霊の国の上に降らされるからである。




春を待つ森で雅子とまた新たに暮らす。




 

2019年3月18日月曜日

別れの時を記念して皆生温泉へゆく



主は与え主は取られる、主のみ名はほむべきかな。




大山に来た時、





母は取られ間もなかった。



悠子が結婚して、父が取られた。




翌年花帆ちゃんが与えられ、ダニエルが取られた。



まり1983年~2000年。ダニエル2004年~2017年。




主が与えてくださった車もまた取られる。




マツダRX-7リミッテット  1983年~1993年 二代目RX-7リミッテットアンフィニー 1993年~1994年
BMW325i 1994年~2005年 メルセデスベンツアバンギャルドリミッテット2004年
~2019年 今日別れを惜しんで雅子と皆生温泉に行く。





皆生温泉料理店荒磯にて昼ご飯を戴く。






龍安寺の庭のような枯山水をみつめながら。





腕のいい料理人のあげる美味しい天婦羅を戴く。






今度、米子駅前にある本店にて料理を戴くことをすすめられる。








食後、永見さんから紹介された華水亭に宮本さんに合いに行く。









いつものように玄関先で歓迎があり、バーラウンジへ行く。




日本海が目の前に広がりロビーはゆっくりと寛げる和の大きな空間で意匠が秀でている。



落ち着いた部屋に季節の花が美しくいけられていた。





































帰り路、雪のかぶった大山を満喫する。





主は与え主は取られる、主のみ名はほむべきかな。





別れの時を記念して皆生温泉にて雅子と


何事も必ず成し遂げられる主のみ名を賛美します。



イエスは十字架の出来事に神の御顔を現されたように。
わたしはあると言われる神は日常の出来事とともにわたしたちの前に御顔を現されます。









大山に来て四年経つ。







悠子の幼いころの思い出の残る、寿城のとち餅を握ってくれたおじいさんの思い出が
壽城の横を通るたびに思い出す。烏賊焼きさんも蟹を境港からここまで運んでくれる。




主は与え、主は取られる。

こうしてわたしたちは主の御力と真実を記憶にとどめるのです。

















雅子とお別れ会のフィナーレにエトワールで過ごして帰ることにする。








エトワールから、今までいた皆生温泉が一望できる。






雅子は大山Gビールバイツエンを注文した。