Chateau Aydie Madiran 2012
残りものの 肉と蓮根とさつまいもとなすびを加えて
雅子は私の好きな海老の天婦羅をつくってくれた。
今度の土曜日にコイノニア会が京都会場で行なわれる。
わたしが司会の担当に選ばれている。大山の森でインターネットで参加することになる。
Chateau Frere Cadillac Cotes de Bordeaux 2010
ヘブライ語で『神はわたしたちとともにおられる。』という意味。
わたしの日常でわたしたちとともにおられるの神を日常語で自分の事実として他者に語れるのかについて語ろうと思う。
そして今日二週間前ホックで買って冷凍していた牛肉と豚肉の6:4の割合のひき肉で雅子はハンバーグをつくってくれた。
堺市のワインショップおおはしからおくってもらったボルドーワインで、イエスの血を飲みイエスの肉をハンバーグを食べながら神の永遠の命をいただく。
おりしも内田樹の「日本人にとって聖地とはなにか」あとがきに「聖地」には強い力があります。だからこそ、人間はそれに惹きつけられる。
でも、「超越的なもの」は当然ながら人間的射程を絶している。
その霊的な法外さを人間に対応できる枠内にとどめるために人間たちが思いついたのが「俗化」という手立てだった、と。僕はそんなふうに考えるようになりました。
僕たちが訪れる先が「聖地」と呼ばれるにふさわしいものであるなら、本来なら人間の賢しらをもって容易に接近し、理解し、制御することを許さない場所であるはずです。
それでもなお「聖地」からわれわれを霊的に賦活する力を引き出そうと願うなら、「聖地を慰撫する人間的な仕掛け」というものが必要になります。
流石内田氏の聖と俗の認識の誤りなさに感嘆するとともに俗化することなくすなわち偶像化、人間自らつくりだすのではなく人間が聖に与る主の道についてわたしは語りたい。
わたしは、人間から聖なるものに自らアプローチする必要はなく、人間は人間であり続けながら俗であるゆえに聖なる方からのアプローチを信じること、が人間を聖化してゆくと思っています。
聖なる方からのアプローチ(注1)すなわちイエスの血と肉を日々の食卓で食すことにつきます。そういう意味で悪しき日も善き日も健やかな時もな悩める時も日々是好日(聖地)です。
(注1) 主の食卓に与る
永遠の命をいきるのに必要な唯一の食べ物イエスの十字架の出来事を一緒に食卓を囲んだ人々とそれぞれ互いの口で味わい体に取り入れ互いの味わいを語り合い認識を深め心に深く留めて再び共同体が必要な時想起できる御力のこと。
想起によって一つの言葉(体)に連なる連帯が生じる不思議な力の働きに圧倒されることが歴史上人々の現前に現れる。
内田氏の言葉を借りるなら、「呪地を慰撫する神的な仕掛け」がすでにわたしたちに与えられていることになります。
ひとりのみどりごがわたしたちのために生れてくる。人間ひとりひとり始まりの力をもって生まれて来るゆえに呪地を聖地へと平和の地に変えてゆく力も聖霊とともにあるのです。