2010年10月24日日曜日

主日礼拝 CH. DULUC



Duluc Branaire-Ducru Saint-Julien  2007

今日は主日礼拝
貝塚聖書教会の原理主義者二人の意見を聴くことになる。
一人は牧師そして一人は執事
ともに教会組織をまもり、聖書の御言葉に忠実に従おうとする姿勢には共感するが、説教者にも信仰者にも聖書理解が自分が正しいものであると思いこんでいるところが恐い。



貝塚聖書教会池尻牧師の本日の説教要約
(使徒の働き14章1節から8節)
パウロはユダヤ人の会堂にはいり説教をして何度も追い出されるはめにあうが、何故ユダヤ人の会堂で説教するのか?
結論は神の正しい理解と異邦人説教で注意しなければならないことを浮かびあがらせていた。
人の神の理解である。
少なくともユダヤ人たちは旧約の神を理解している。そこに新約のメシアを紹介しているのであるが、異邦人には新約の神は土着の神の理解の上にしか理解できないし、その延長でしか受け入れられない。
事実ルステラでバルナバをゼウス、パウロをヘルメスと呼び崇めた事件が起こる。
我が国の宣教にも同じことが言える。
伝統宗教の土着性風土性を理解しないと話が進まないが、宣教において神理解に関してはっきりとした態度が必要であると結ぶ。


ザビエルが伝道していた頃も同じことが起こった。日本の使徒ヤジロウの翻訳力不足によりイエスを神の子と訳する時に神に当たる言葉を日の子と訳したので大日如来信仰する信仰からイエス信仰に入って行きやすかったものが多かった。
わたしはこれでいいのだと思うが、わざわざ日の子をゼウスの子としたところに、
ギリシャ神話の神にわたしは興味をもった。
こちらの方がますます滑稽だ。

風土と日常と人と聖書とイエスとむすびつけ考えるからこそ、その場に神の力が働かれるのだとわたしは思っている。
雑多な日常も風土性もないひとが生活する場(神の国)が人の暮らすところ以外にあるとでも原理主義者らは思っているのだろうか。
なんのためにわざわざイエスがナザレの混沌とする日常に現れたのか理解していないのではと思ってしまう。
人はるかに高く天で、聖く創造者の御姿・御力のまま人の目に触れずにいればいいものを何故わざわざ苦難の日常に現れ十字架刑にならなければならなかったのか。
わたしはいつも考えてしまう。
雉も啼かずば撃たれまい。しかし雉も神も泣く、不思議にも。
そして結論を得る。
地の上に人が誰一人いないならば(滅亡すれば)、人はいないのだから神は人に現れる必要もない。
それゆえ神は人が日常に居続けられることを欲している。神はひとに関心がおありなのだ。人に興味がおありのようだ。
神の愛とは他者への興味関心です。
誰れ一人として関心の持たれないものはいない。
一人のひとの関心が滅ぶのを主は望まれないのだ。


わたしは、イエスは『神に対するひとのとんでもない誤りも、失敗も、そんなもの「へ」ともしていないと思っている。』
むしろ個々ひとり々の人格『はいといいえをはっきりさせること』を厳密に希求しておられるように思う。
はいといいえをはっきりさせる一人ひとりの自由を十字架刑で購うほどに切望されている。
神に対して失礼なことをいうことは許してもらえます、しかし聖霊をないがしろにすることは決して許されません。





貝塚聖書教会の執事も聖書理解は聖書によらなければならないから、権威あるひとから学ばなければならないとしている立場をとっている。
わたしはだれからも学ばなくてもその人の聖書理解で他と議論することが必要であると思っている。
完全に理解できるものは誰もいないのでそれでいいのだ。
パウロが言うように各人がイエスの広さ深さを知るように神自ら御目をこらされているような気がするのです。


昼ごはんにいただいたワインは、サンジュリアン村第4級格付
シャトーブラネール・デュクリューのセカンドワイン
スーパーで買ってきたお寿司ともレモン汁の生牡蠣ともよく合っていました。

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