「我々はウクライナのあらゆる部分を防衛しており、今後も防衛を続ける。」
雅子は風呂帰り今宮さんと会って、四国のお土産をもらった。
六時屋タルト。旅行で何が良かったかと尋ねたら大塚国際美術館がよかったらしい。混んでいたとのこと。
わたしは貝塚聖書教会のゼカリア書3章9節「地の咎を取り除く神」を聞いていた。
バビロン捕囚から解放された人々が破壊されたエルサレムの町を立て直す。
そういう場面、その中でゼカリアに神は幻を見せてくださいます。
幻はすぐさま参議院の塹壕に現れました。
日本国憲法21条は検閲を禁止して言論出版その他一切の表現の自由は保障される。ですが、安倍政権時代の放送法「政治的公平」に関する公文書から、報道の自由への安倍政権の介入が国会討論によって浮かび上がってきた。日本の民主主義の劣化が権力により批判を封じられた報道の不自由から複合的に起こって来ることが国民の目に示される。
あなたたちは罪に対して血を流すほどまでも戦ったことはありません。山里牧師は語ります。わたしたちは罪に対して血も流さず戦いもせずいい加減なものです。
然し罪のために血を流されわたしたちをゼガリアに見せられたように汚れた服を取り除き大祭司にふさわしい新しい礼服を着させてくださる神の行為が歴史(十字架)上に啓示されています。
わたしたちの暮しの塹壕に自由を希求する人々に神の(行為)恵みが崇められますように。
参考: 啓示とは現わし示すこと。
言論は民主主義社会では互いが啓示の主体となっている。
表現の自由が保障される社会では、人間が生まれながら平等である性質が啓示の主体者としてエゴーエイミとともにある。
ここでエゴーエイミの(性質)品位について内田 樹氏の 「品がよいとは悪いとはより」を記しておきたい。
いかなる時代にあっても、下品なものは断固として退けられねばならないし、上品なものは擁護され顕彰されなければならない。
世の中には「オルタナティブ」を認めてもよいものもあり、認めてはならないものもある。そして、品位(decency)は決してオルタナティブを認めてはならないものである。
なぜなら、品位はその本質からして「集団内部的なもの」「内輪の決まり」ではないからである。それは「外部」から到来するもの、われわれと共通の論理や価値観や美意識を共有しないもの、すなわち「他者」と向き合うときの作法のことだからである。他者に向き合うときの作法とは、一言で言えば「敬意を示すこと」である。
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