三月に入っても大山の森に雪が降る。すぐに溶けてしまうだろう。気温1℃。
聖書にはユニークなことに政教分離の伝統がある。モーセは祭司王的であったが、それでもその時代すでに神は大祭司アロンをたてて役割を分担させている。
王国時代になると、王が祭祀に手を出すことに対して、神が怒りを発せられた。
サウル王が預言者サムエルの分を侵して生贄を捧げた時、神の怒りを買った。(Ⅰサムエル記13:8~14)またウジア王は祭司の領域を侵して神殿で香を焚こうとして神に打たれた。(Ⅱ歴代誌26:16~20)
なぜ神は教権と俗権を分離されようとするのか。
ローマ書13章は「神のしもべ」としての俗権について。他方黙示録13章には俗権は得てして傲慢になって悪魔の手先になることが記されている。
第一に、神は教権と俗権を共にご自分のしもべとしてお建てになる。
第二に、キリスト者は俗権もまた神のしもべであることをわきまえて、俗権を重んじ、彼らが過ちを犯さぬようにとりなし祈らなればならない。(Ⅰテモテ2:1~3)
第三に、剣の権能を持つ俗権は得てして傲慢になり悪魔の罠に陥り、教権を侵害しがちであるから、神の《愛の》もとに《日本国憲法の下に》自らを置いて謙虚であるべきである。《》はブログ者の補記
最後に俗権の制限の歴史について、英国中世にジョン王の暴政に対して封建領主たちが制限をかけたマグナ・カルタが立憲君主制(制限君主制)の始まりと教えられた記憶があるが、神はすでに申命記において、「王といえども神と法の下にある」という原理を啓示しておられる。
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