2012年2月26日主日礼拝
使徒の働き21章17~26
貝塚聖書教会池尻牧師の説教要旨
パウロがエルサレムに着きヤコブを訪問し異邦人にも神はユダヤ人と区別なく聖霊が与えられることを告げる。
ユダヤの律法を重んじる人々とともに、律法のないものにも神は等しく臨まれるのにはイエスを主とする者にとって
当然の帰結なのだが、古いイスラエルの律法主義に陥っているものたちからはイスラエルの律法に反する許しがたい行為と見える。
そこで、ヤコブはユダヤ人とパウロの間に入って騒ぎを起こさないように工夫する。牧師は誤魔化し小細工と表現。
パウロは立法を重んじることをエルサレムのクリスチャンにわからせるために先祖の慣習を行う人たちの、財政的支援者になり、律法を重んじる敬虔な人であることを演技してもらいたいと言うヤコブの申し出を聞き入れる。
結論として、パウロはなぜそうしたのかわからないが、神を信じる者とは真理を愛するものである。
そういうところから考えて、当然、真正面から神を証すべきことであるにも関わらす、真理に従う苦い経験を当然しなければならない時に、はぐらかすことは後々とんでもないことになる。
信仰者は真理の前に苦しい選択するときに信仰が試される。
牧師は冒頭、国家君が代の法制化で、君が代斉唱の時苦しい選択を迫られるクリスチャンについて心を寄せていた。
私の反論
真理は人にはなくイエスとともにかかわりの日々にイエスが道であり真理であると示される真実がある。
それは、一人ではなく他者が必ずかかわっている。少なくともイエスがいる。
だれも最初から真理を理解して行為しているのではなく、時と場所、人々の思いによって違って見えるのは、その時その場で人びとの前に立たれるイエスを賛美するためである。
牧師の真理はユダヤ人の立法に呪縛されているようなもので、すでに既存の真理に隷属している。
牧師はイエスは人を自由にし、平和を実現されることを知っているはずだ。
人にはできないことでもイエスには不可能なことはない。
つまり人にはできないことがあるが、神が実現させてくださることを語ってはいない。
人はだれも自分の道は真っ直ぐで正しいと思うが、道を真っ直ぐにするのは神です。
牧師が言っているように
なぜパウロはそうしたのかわからないのではなく、パウロの言葉にある。
私はユダヤ人にはユダヤ人のようになり、ギリシャ人にはギリシャ人のようになって一人でもイエスキリストを述べ伝いたいのだ。
是が真理です。
パウロは人と人の間で神をイエス(真理)を賛美しているのです。
私はいつも思っていることがあります。
イエスの十字架は人の不完全を決定づけお互い主に購われている。
贖われた者同士不完全を担い合うことが必要。なんとか工夫して暮らすことが大切。
不完全なものに真理は、神(自分意外なもの=他者)から糺され示される。
それゆえ己の中で真理とする者は既に腐敗する。
真理はなまものです。