2024年9月17日火曜日

人々が食欲の秋と言うのは頷ける

 


ユウアイパルからホックへ渡る道路で、車にはねられる出来事がわたしの身に起こる。縁石迄とばされたが、足と腕をすりむけただけでたいしたことはなかった。黒坂警察が来て現場検証と事故の様子を撮って書類に記録していた。



ホックで買った栄螺と白澤さんから戴いたピリ辛シシトウとガーデンプレイスのおぼろ豆腐を戴く。初めてエホバの証人が尋ね来た夫婦以来の大山の森に若い二人が尋ねて来た。大山の森で一緒に聖霊による交わりを感謝し主に祈った。




カーデンプレイスの梨をデザートに戴く、初めての季節のもの。
鳥居さんから手作りの焼きたてのパンと可愛いおやつを戴いた。



雅子は剥いた栗を買ってくるようにわたしに事図けるが、なかなか剥いた栗はガーデンプレイスには現れない。






栄子から連絡あり、事故のことを心配してくれた。花帆ちゃん達から敬老の挨拶をもらったことを伝える。




花帆ちゃん英会話習いたいらい。みんな英語を習っているのだそうだ。




2024年9月15日日曜日

主の日大山の森で礼拝と散歩

 


太陽の力が衰えたのか、日差しの方向が変わったのか噴水の勢いがなくなっている。蝉の声も少なくなった。季節は変化しているのがベランダにも現れている。




久留米キリスト教会で今朝のメッセージでイエス様の結婚観を語られていた。

「屁理屈ではなく本質で」 踊真一郎牧師    マルコによる福音書 10章1-12節

そして大胆にも「離婚」と「結婚」について、特に現代では大きな社会関心であるLGBTQ+の結婚についてどう考えられるのか、一緒に模索してまいりましょう。 と、



御霊によって人にあたえられている個人の自由と共同体について語られているところが興味深かった。その説教の問いの余韻の内を思索しながらわたしは烏賊焼きさんに会いに行く。




私市さんなら結婚について、結婚しない自由が当然あり、離婚する自由も個人には当然あるが、キリストは御霊によって選び取る自由すなわち愛の足らない者通し個人が助け合い共にいる自由の内に祝福を与え賜う、結婚とはそういうキリストの愛を遂行する、個人であり且つ共同体を意味していると答えられると思う。




これはガリラヤのカナだ、最初の奇跡だ・・・・・。ああ、この奇跡、ああ、このすばらしい奇跡!




その最初の奇跡を現わすにあたって、キリストの訪れたものは、人間の悲しみではなくて、その喜びだった、



人間の喜びを助けられたのだ・・・・・。』『人間を愛するものは、その喜びも愛する』














ダニエルやまりが喜んで水浴びしたお気に入りの小川。





「喜ぶ人とともに喜び、泣く人と共に泣きなさい」というこの言葉は、イエス・キリストの言葉ではなく使途パウロの教会の人々に送った手紙の中に書かれている言葉です。



ガリラヤ湖の人々の暮しの中でイエスの語られたみことばのように聞こえる。
あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。共同体である公共に個人の自由を尊重する共通の行い、公共の福利を市民が共に支え有する行為(政治)、民主主義の基い。



先週は、からだがだるいのであがって来れなかった。





おぼろ豆腐と梨と栗と白ネギと茄子を買った。



帰りにお隣のガンバリウスでGビールを一杯ひっかけて帰る。




バーレーワイン。











ダイワロイヤルホテルの看板がメルキュールになっている。


別荘への取り付け道はいつも町の人によって手入れされて美しい。
くらくなると遊歩道には明かりが灯り気持ちがいい。









大成池公園。





いつのまにか曇りだした。午後一時をまわってこれから昼御飯を雅子と戴く。















久しぶりの八宝菜





人間の自由な共同体(教会/社会)の創設について聖書はキリストの体と表現しています。