個人の現前に現れた聖書のキリスト(出来事)を自分の目で見て隣人に証しすることと同じ。自分が暮す(公空間/世)に発言すること。すなわち伝道をなす行為は、人が自分の経験(見方)を隣人に語ることによって、主の御力によって語られた言葉にわたしと他者が共に承諾する言葉に変化が現れ更に変化したことばが偶然居合わす知らない人々にも検証され、誰も想像だにしなかった言葉に変貌するその言葉に促されたものの発話がさらに増し加えられて更に不思議な事由が現れてくる、これはすなわち一人の発話によって始まる自由を尊び喜ぶキリストの復活だ。 ルカ24:36~48 ↑クリックするとメッセージが聴けます。
━━━ 個人の内にある呻きにも似た願い(祈り)を世にことばにすることで始まる(自由)がその言葉に自由に応答する隣人によって担われ大きくなってゆく。世に参加する人々の願いが多ければ多いほど葛藤や矛盾が増大すればするほど互いにキリストの愛によって(マタイ5:45)、赦しと叡智の寛容による約束によって、一つに纏まれば纏まるほど初めの言葉が奇跡的に変容して新しい自由(言葉)が世に姿を現し人々に共有されて自発的に保持されてゆく。これが民主主義。 詩編133篇
久しぶりに烏賊焼きさんから鰯を持ってあがるからとりにおいでと電話がある。
わたしは戴いた鰯を主に感謝して隣人に配った。
千敏君の保育園のアルバムを一緒に見て楽しんでいるとコメント。
聖書の言葉でイエスと一緒にいた弟子たちの言葉が印象的だ。
わたしたちは、自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません。
使徒4:20
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