2024年4月21日日曜日

ガーデンプレイスまで散歩する

鯛を戴きながら、 昨日コイノニア会がありヨハネ15章を聖霊の交わりによって語り合った。


私市さんは天の父とイエスさまとの関係はイエスさまとわたしたちとの関係と全く同じ相似形になっているのと、
またこの章はイエスさまご自身をブドウの木にたとえて、共同体である公同の教会の姿をイメージしていますと語っておられた。









新緑が日増しに増してことりたちのさえずりが森にこだまする。









今日は鰯のかば焼きをお昼に戴く、食後わたしはこし油を求めて
ガーデンプレイスまで散歩する。

















悠子から花帆ちゃん達の様子がラインで届く。
久留米はもう夏を迎えている。















久留米キリスト教会からメッセージが届く。

「エッファタ!(開け)」       踊 真一郎 牧師
先週からマルコ福音書の講解説教に戻りました。今朝は7.31-37を読んでまいりましょう。
イエスさまがガリラヤ湖周辺にいると、32節「人々は耳が聞こえず、舌の回らない人を連れて来て」、癒してほしいと願う。私たちであれば、先ずはお医者さんを回って治療を求めるが、古代世界での病の大前提は「病は悪霊にとりつかれて罹る」です。「本人や家族、先祖が神さまに対して重い罪を犯し、その守りから外れ、そこに悪霊が憑りついて病になる」と考えられた。だから重い病であるほど「強い悪霊にとりつかれている」と思われたし、手に負えないと町や村から放り出されることもあった。今朝の聖書の彼に関しては32節で「人々が彼をイエスさまの許に連れて来て」いる。だから、まだ人々が彼の回復を諦めず、何とかしようと願ってくれていることが分かります。そこで彼らは評判のイエスさまならどうにかできないか…と願って、彼を連れてきた。
イエスさまはどうしたか。33節で彼を癒します。ただ私は、癒し以前に33節に非常に気になる記述がある。それは「この人だけを群衆の中から連れ出し(た)」です。
それは何を意味する行動なのか。私はここにこそ、イエスさまの救いの本質を見出す。そして、イエスさまは「エッファタ!(開け)」と語る。その言葉は、病のため孤独を抱え、自分の思いを封じてきた彼を解放し、救い出す言葉なのだと感じるのです。



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