コイノニア会がありテモテ2章を聖霊により語り合った。
テモテ2章1節の勧めを語りながら、11節から16節の女に対しての聖句は主の共同体(教会)を形成してゆくためとは言え批判が噴出していた。
久しぶり公園で遊びます。
「女性は教会で発言を控え、従順であるべき」とする教えは、パウロが直面していたエペソ等の特殊な地域事情(異教の女神崇拝や、当時蔓延していたグノーシス主義的な偽教師による混乱)を鎮めるための「応急処置的ルール」でした。今日において、この記述を時代や文脈から切り離し、「普遍的な女性蔑視の教理」として固定化してしまうことへの反発があります。
男性が支配し女性はそれに従うという構図は、基本的人権や男女平等という現代社会の倫理観と深く矛盾します。今日では、家父長制的な文化を神聖視するのではなく、イエス・キリストが示した「互いに愛し合う」「すべての人は神の前に等しい」という根本的な福音の精神に基づき、聖書を読み直すべきだという主張がなされています。
久留米は台風の被害がなかったようです。
和子姉はリハビリに励んでいます。
わたしは大山でひとりで食事を作り一人戴きサッカーワールドカップを楽しんでいます。
日本は決勝戦で30日午前2時にブラジルと対戦します。起きてられるかなぁ。
朝食はフルーツサラダとトーストと牛乳と珈琲。
第一コリント11章などにも見られるように、初期教会において女性も祈りや預言(教えを告げること)を行っていた事実があります。それにもかかわらず、テモテの箇所の言葉が女性の牧師や指導者への道を閉ざす「教会法」として悪用されてきた歴史があり、これに対する神学的な批判やフェミニスト神学からの問い直しが続けられています。
洗濯機で洗濯し雨のため部屋の中に干す。
サムエル記上8章は、イスラエルの民が「自分たちも他の国々のように王が欲しい」と神に要求した場面を描いています。当時の要請や人々の願いは、「目に見える王を立てて自分たちを守ってほしい」というものでした。しかし神は、それは「神を王とすることを捨てることである」と警告しました。
ここから得られる教会の共同体形成に対するヒントは以下の通りです。
- 人間の願いの相対化
民が求めた「他の国々のような王」は、安全保障や秩序という時代の要請を満たすものでした。しかし、神はそれを「民が神を王とすることを拒む道(惨禍)」であると指摘しました。教会が共同体を形成する際、多数決や時代のトレンド、人々の切実な願いであっても、それが神の意志に反するならば、立ち止まって見極める必要があります。 - 神の意志への謙虚な服従
民はサムエルを通して語られる神の警告を聞いてもなお、「自分たちには王が必要だ」と要求し続けました。共同体の運営や制度設計において、人間の理想や願いを優先させすぎると、やがてそれは偶像礼拝となり、本来の目的から外れてしまいます。 - 賛歌に至るための問い直し
神は民の願いを最終的には聞き入れ(王を立てることを許し)つつも、その結果としての苦難(王の圧政)を経験させます。教会の歩みにおいても、時に人間的な判断を優先させてしまう弱さがあることを認めつつ、常にみ言葉(イエスの愛と解放の福音)に立ち返り、神のみ旨を問い直すプロセスが不可欠です。
テモテへの手紙第一2章11〜16節の女性に関する記述も、
当時の古代ローマ帝国の社会的要請や文化的な背景が色濃く反映された教訓です。今日の教会が共同体を築く上では、時代的な制約(パウロが生きた時代の限界)と、ガテラヤの信徒への手紙3章28節に記されている「男も女も一つである」というキリストにおける根本的な解放とが交錯していることを認識することが求められます。
共同体の形成において、
時代の願いと福音の間に相違があるときは、「自分たちの願い(王)」を絶対視せず、
ナザレのイエスさまが示された「愛と仕え合い」(デモクラシイ)の聖霊をもって、
絶えず祈りの中で方針を吟味していくことが、「賛歌(神を賛美する歩み)」へと繋がる道ができてきます。








0 件のコメント:
コメントを投稿