わたしを食べるものはわたしによって生きる。
六月に入って初めての主日礼拝に教会では聖餐式が行われている。
わたしたちは二つの教会の礼拝に参加した。
一つめは久留米キリスト教会 「3つの視点」
山里将之牧師 テサロニケ人ヘの手紙第一5章20
『愛にあふれた自由の聖霊(神)が今わたしたちが出会う出来事をとおしてどんな真理を語っておられるのか』
聖書によってわたしたちの現実に適応することを疎かにしてはいけない。 ということ。
この個人の生来の視点が相手の視点も尊重することででき、個人と相手とをともに祝福する第三の神の視点(世への愛公共性)の視点にまで個人の視点転換(成長)するには、すなわち個人の自由を基礎とする政治(民主主義)が唯一世界の優れた政治体制として人類に確立されていくには三つの視点を自由な個人に自発的に促すことなしには(聖霊が関与することなしには)破綻してしまう。現在わたしたちが目にしているアメリカ(過去に日本人が秀でて見えていた)デモクラシイが危機を迎えた原因である。
預言をないがしろにしてはならないというみ言葉は真実です。
1. 個人の視点から「神の視点(公共性)」への転換
生まれながらの人間が持つ「自分本来の視点(第一の視点)」は、自己保存や私利私欲に囚われがちです。ヨセフを売った兄たちのように、自己中心的な視点に留まる限り、他者との関係は対立と排除を生み出します。
これが「相手の視点(第二の視点)」を受け入れ、さらに全体を包括して祝福する「神の視点(第三の視点=公共性)」へと昇華されて初めて、真の共生が可能になります。政治学においても、民主主義は単なる「個人の欲望のぶつかり合い」ではなく、他者を尊重する「公徳心(パブリック・マインド)」があって初めて機能すると言われています。
これが「相手の視点(第二の視点)」を受け入れ、さらに全体を包括して祝福する「神の視点(第三の視点=公共性)」へと昇華されて初めて、真の共生が可能になります。政治学においても、民主主義は単なる「個人の欲望のぶつかり合い」ではなく、他者を尊重する「公徳心(パブリック・マインド)」があって初めて機能すると言われています。
2. 「自発的な促し(聖霊の関与)」なき制度の限界
民主主義というシステムは、個人の自由を最大化する一方で、その自由をどう使うかは個人のモラル(倫理観)に委ねられています。しかし、この倫理観を法や権力で強制すれば、それはもはや民主主義ではなく全体主義になってしまいます。
強制ではなく、自由な個人が「自発的」に他者や公共の利益を想うようになるには、人間の理性を超えた内面的な変革、すなわち聖書でいう「聖霊の働き」や、目に見えない大いなるものへの畏怖(預言の尊重)が不可欠です。それらが失われ、物質主義やエゴイズムだけが肥大化した結果が、現在のアメリカをはじめとする西側諸国の民主主義の機能不全(分断や衆愚政治化)に直結しています。
強制ではなく、自由な個人が「自発的」に他者や公共の利益を想うようになるには、人間の理性を超えた内面的な変革、すなわち聖書でいう「聖霊の働き」や、目に見えない大いなるものへの畏怖(預言の尊重)が不可欠です。それらが失われ、物質主義やエゴイズムだけが肥大化した結果が、現在のアメリカをはじめとする西側諸国の民主主義の機能不全(分断や衆愚政治化)に直結しています。
3. アメリカ・デモクラシーの危機と「預言」の真実
アメリカの民主主義を支えていたのは、精緻な政治制度そのものよりも、人々の根底にあったキリスト教的な信仰心とコミュニティの絆でした。
「預言をないがしろにしてはならない(テサロニケの信徒への手紙一 5:20)」という御言葉通り、神の語りかけや普遍的な真理、道徳的な指針を軽視し、目先の利益や党派心に走ったことで、アメリカ社会が自滅しています。
「預言をないがしろにしてはならない(テサロニケの信徒への手紙一 5:20)」という御言葉通り、神の語りかけや普遍的な真理、道徳的な指針を軽視し、目先の利益や党派心に走ったことで、アメリカ社会が自滅しています。
人間の自由を認めつつ、その自由が破滅に向かわないための政治をいかに保つかという問題は、今まさに人類に問われています。
この危機の時代において、全世界に出て行き福音「第三の視点(神の視点・公共性/ 世への愛)」を宣べ伝えよと預言の言葉を聞く者すべてに命じられているのです。

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