2024年4月28日日曜日

希望を創造する神の御力が大山の森にも届く

 順番に三日間の出来事を想起することにしよう。

まず初めにウエルカムオフィースのサロンで美しい鮎の饅頭菓子が清水さんによって準備されていて美味しいお手前の抹茶を戴いて郷原所長から今日の茶話会のテーマはエコについて皆さまが日常されていることを話し合って戴きたいとの申し出がある。


それでわたしはエコのお話って、それ、国連で今各国政府に採択を求めている持続可能な地球環境を維持する(SDGs)ために日常で行っていることを皆で話し合うのと尋ねると、そこまでは話を広げるのではなくてリゾート生活のなかでの地球環境に優しい工夫したことをほかの人にもお知らせしてよかったら取り入れて行きませんかというところでお話しして行きたいとのことでした。

エコという言葉を調べると
「エコ」とは生態学・自然環境を意味する「エコロジー(ecologe)」の略語で、現在では「環境にやさしい」といった意味で使われています。また近年では経済を意味するエコノミー(economy)の「エコ」とも言われるようになり、経済と環境は密接にかかわりのある一つの問題として捉えられています。


地球環境を護る以前に共通認識としてわたしたちは地球という環境はすなわち自然は人間が生み出すことができないということを認識しておくことが必要であると思う。
わたし達が地球環境を守る以前にわたしたちが地球環境によって護られて命を生み出されたという共通事実認識としてもっておく必要があるのではないか。



すなわち一昨日のコイノニア会のコリント14章の異言と預言について論じたように、わたしたちに人間にとって、地球や言葉は、まず初めに遡ってなにがあったのか、すなわちわたしたちに誕生をもたらしたものはなになのか共有したいのです。



初めに、神は天と地を創造した。創世記1:1
初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
ヨハネの福音書1:1




 「心満たされ、腹満たされて」 踊真一郎牧師    マルコによる福音書 8章1-10節



日曜日は烏賊焼きさんがガーデンプレイスにあがって来る。
わたしは昼御飯の焼きそばと烏賊焼きをもとめて雅子にガーデンプレイスまで散歩がてらに行くと言づけて出かけた。


大成池公園を過ぎメルキュールホテル前に来て遊歩道を下ろうとすると
松原さんと田辺さんとに出会う。
田辺さんは庭の草と枯葉を整理してごみ焼却に持ってゆくところで、松原さんはホテルの遊歩道にあるガーデンの草取りをしていた。


ばったりと遊歩道のとりつき口で三人が出会う。
なんとにっこりと微笑みと親愛の言葉が溢れてくる。


遊歩道を下ってゆくと岸本山手通りのガンバリウスの前に到着する。中から幟旗をもって出てきて、わたしに、ゴールデンウィークが、入口の列を見て、あけたらゆっくりできると、それじゃ連休明けに。
烏賊焼きさんは連休は3日から5日まで上がって来る、社長の娘さんも久しぶりに来ると言う。それじゃ日曜日に会えるねと言ってダニエルが水浴びした伯耆町交流の森を通って帰る。


帰り道で昨年ごろから美しい庭ができていた、今日はそこで憩っている人がいたのでどのような方か尋ねた。先日、雅子と大成池公園で花見をしていたのを知っているC街区の人だった。公園のような庭をつくっていた。


リゾートオフィースの前まで戻って来るとメルキュールホテルで働いている金谷さんとばったり。もう温泉は入れなくなってしまっていかんなぁと挨拶。給料あがったと尋ねると20円、時給980円とのこと。 またなんかと教えてと言って別れた。


帰ってきて雅子に今日のことを話したらフルコースやなぁ。
ほんまごちそうさまです。

異言と預言を考えると、
異言は神とわたしとの間に届く言葉とすれば預言はわたしと隣人との間に届く言葉。
愛を求めなさいと言われているように、創造主とわたしと隣人との間に届く言葉はみことば神から愛されているように隣人を愛しなさい、同じように隣人から愛されなさいという関係まさに、神の御前で結婚する異質な他者どうしの関係と同じ。あなたの隣人がいつもあなたのそばにいて一緒に生活できることが神の祝福。


コリント14章のなかで女は黙っていなさいというパウロの言葉に聖霊によって随分議論がなされた。
雅子曰く、おんなは自由においておとこより自然で勝っているので、旨くふるまうことができるので不自由な男がそのことで弱ってしまわないように自由については配慮してあげてよと神からの自然な不自然な差異へのノーマル化の働きかけすなわち平等要請のことだと言う。


なるほど自然の中で優位なものは弱いものを尊重して労わるのは当然なのは神の論理。黙っていなさいと言われても弱い者のために女は配慮要請に腹立ちを忍耐しながらもそれでもノーマル化(完全)のために論理武器で戦う男たちのために語らなければならない。腹を空かす肉体を持った人間(隣人)を見て愛せよと。



2024年4月25日木曜日

国産サーロインステーキと仏蘭西ボルドーワイン

 アメリカサーロインステーキやオーストラリアの肉はわたしの好みだったが円安で国内産の肉の方が安くなったので脂の少ない鳥取島根のホック肉を買った100g398円サーロインステーキ415g。今まで食べていた輸入肉と同じ価格で味も遜色ない。国内産の牛肉も随分と安くなったと感じる。


Arabesque Clos de roy 2016 Fronsac Grand Vin de Bordeaux 




アルデンチン産海老も昔から私たちの好物安くておいしい。
アメリカやオーストラリアの肉が好きなのは適当な脂の中に草の香りがするから。


こちらのホック肉は霜降りは高いがサーロインで脂の少ない肉は随分安くなりおいしい。
ボルドーのにおいのいいワインとベストマッチ。




春の森の中で夫婦で戴くお昼御飯、明日リゾートオフィース主催の茶話会があり明後日は午後一時からコイノニア会がある。コリント人への手紙14章


















節ちゃんから電話が、ユーアイパル温泉にデマンドバスで行っているとのこと。
午前中に行って時間ができれば買い物しているらしい。


最近国連の持続可能な市民生活を大切にして生きると言う標語が
SDGsであるのを知った。日本政府はもっと市民に知らせないといけない。


市民の生活が持続可能に必要なこれからも政治が大切に護ってゆく国連で採択されたものは夫婦が愛し合い協力してパートナーを維持し多様な人々が尊重し合いお互いが平和に暮らす生活。
おいしい水や美しい森や旨い食物を生み出す大地や海を護ることや子どもたちがすくすく育つための、大人が保証する、医療や遊びや自然環境や教育を受ける子どもの当然の権利であることが、今さらながら太古の昔から人々が貧しいながら学び愛し営んできた、素朴な共通の感覚ComonSence公共の益そのものであること、すなわち人類の幸福に驚き感動する。


御力の前に暴力による脅し奪い傷つける人の行為(戦争)はなんと愚かなことに見える。
日本政府と国民は愚かな傲慢な人々の政治の暴虐から平和を賜った日本国憲法の恩恵と、戦後国際的に採択された人類の英知の二つの恵沢によって敗戦後わたしたち自身が得た幸福を世界の人々に証しする立場にある。
奢ったならず者の武器商人にへっらってはならない。わたしたちの国は祈りの国宮と呼ばれている、そこを強盗の住処にすることにはできない。

2024年4月22日月曜日

一年ぶりのこしあぶらを戴く

雅子に久しぶりのこしあぶらやぁと言うと、一年ぶりやと返事が返る。   

        

今日、鳥居さんから電話が、焼いたパンを郵便ポストに入れていますから食べてくださいと嬉しい便りを戴く。







恵みとまこととは、互いに出会い、義と平和とは、互いに口づけしています。 詩編85:11


まことは地から芽生え、 義は天から臨む。 詩編85:12





平和のために引き継ぐ地に、芽生えるものをわたしたちは確りと義のみ前(公共)にまことなるものはなにか明らかに想起しておかなければならない。



「どんな暗い時代でも人は何かしら光明(平和)を期待する権利を持つことを忘れてはならない。」

「新たに到来する人間一人一人が始まりをもって生まれてくることで (誰でも新しく生まれなければ神の国をみることはない) 人を新しい行為(自由)へと導く。」    ハンナ・アーレント

()内はブログ筆者


2024年4月21日日曜日

ガーデンプレイスまで散歩する

鯛を戴きながら、 昨日コイノニア会がありヨハネ15章を聖霊の交わりによって語り合った。


私市さんは天の父とイエスさまとの関係はイエスさまとわたしたちとの関係と全く同じ相似形になっているのと、
またこの章はイエスさまご自身をブドウの木にたとえて、共同体である公同の教会の姿をイメージしていますと語っておられた。









新緑が日増しに増してことりたちのさえずりが森にこだまする。









今日は鰯のかば焼きをお昼に戴く、食後わたしはこし油を求めて
ガーデンプレイスまで散歩する。

















悠子から花帆ちゃん達の様子がラインで届く。
久留米はもう夏を迎えている。















久留米キリスト教会からメッセージが届く。

「エッファタ!(開け)」       踊 真一郎 牧師
先週からマルコ福音書の講解説教に戻りました。今朝は7.31-37を読んでまいりましょう。
イエスさまがガリラヤ湖周辺にいると、32節「人々は耳が聞こえず、舌の回らない人を連れて来て」、癒してほしいと願う。私たちであれば、先ずはお医者さんを回って治療を求めるが、古代世界での病の大前提は「病は悪霊にとりつかれて罹る」です。「本人や家族、先祖が神さまに対して重い罪を犯し、その守りから外れ、そこに悪霊が憑りついて病になる」と考えられた。だから重い病であるほど「強い悪霊にとりつかれている」と思われたし、手に負えないと町や村から放り出されることもあった。今朝の聖書の彼に関しては32節で「人々が彼をイエスさまの許に連れて来て」いる。だから、まだ人々が彼の回復を諦めず、何とかしようと願ってくれていることが分かります。そこで彼らは評判のイエスさまならどうにかできないか…と願って、彼を連れてきた。
イエスさまはどうしたか。33節で彼を癒します。ただ私は、癒し以前に33節に非常に気になる記述がある。それは「この人だけを群衆の中から連れ出し(た)」です。
それは何を意味する行動なのか。私はここにこそ、イエスさまの救いの本質を見出す。そして、イエスさまは「エッファタ!(開け)」と語る。その言葉は、病のため孤独を抱え、自分の思いを封じてきた彼を解放し、救い出す言葉なのだと感じるのです。