2016年8月4日木曜日

一年の経験



大山に来て私たちに与えられた経験は、悠子の結婚と父親の死。




雅子は父親がいたことによってなんとなく(甘えて)安心していた部分がなくなって、
悠子達とわたし達が直接対峙する関係になったとのこと。
親に甘えていた関係がなくなり甘えられる立場になったという。




そのような変化がわたしにも訪れる。




哀悼

三月一日の夜。山里牧師先生と一緒にセレモ平安を訪れ。

登さまの御遺体と対面しました。




未だ納棺前です。
とても穏やかなお顔でいらっしゃいました。


山里牧師先生のみことばと(悼辞は、祈り)は厳かで神様の御臨在を感じるものでした。
同時に恐ろしいまでの神様の聖さと深いご愛にわたしは(イエスキリストさまの御霊に)思いを寄せる時となりました。





登さん登久子さんとの御国での再開を待ち望み、


ご家族様に天籟のお慰みがありますように。





暖かいお便りをいただきましたことを御礼申しあげます。



大山に来て、父の死と悠子の結婚は、わたしたちに新しい夫婦のこれからを主が備えてくださっていることを感じています。




今はダニエルの見送りに責任を、
 

 

 
集中させながら、過ごしています。 
 

 



雅子は鳥取医大で禄内障の検査で、視野の(見えている範囲)は半分にまで左目がなっている。

医師が言うには、いずれ手術をしなければ、失明することになるらしい。






わたしたちに、生きてゆく罪のコストが体をもってイエスさまのように証ししてるのがわかる。

罪から来る報酬は死です。しかし神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」ローマ6:23.

考え方を逆にすればそれぞれの人生(罪人)の人生・アダムより続く人の営みの負い目によつて私たちは罪を共有している。

ということは、イエスさまのご復活によって贖われると信じるものとは、
罪の現実(救われる姿)を、隣人と共有しているとも言えます。

隣人と共有できる真実とは「わたしは罪をもって生まれてきた」平等性/原罪の認識が基本にある。


それゆえ 
【 隣人は、「高慢」superbia に関する生きた警告者である。 】
          アンナハーレント アウグスチヌスの愛の概念より


地上の生活(罪)こそ共同体『神の国』にはいる人びとの所与となっている。
十字架の上で高慢」superbia に関する生きた警告者である他者の行為によって見えてくる共同の罪性を認識し語った人に、まことにあなたに告げます。今あなたはわたしととともにパラダイスにいます。と告げています。


神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。


これらは信仰を個人の心のうちを吟味する関心から、複数の隣人とともに生きて自由と愛の喜びを味わう生き方へ関心を方向転換することで初めて、あなたは今パラダイスにいるという

主が宣教の始めに宣べ伝えた神の国、(自分を愛するように隣人を愛する)共同体/永遠の命を知るのです。






 

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