■[エレミヤ書] 31章31-34節
31 見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。
32 この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。
33 しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
34 そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。
旧約聖書にかかれている来たるべき日の出来事が新約聖書にあらわされました。
キリストのみ霊の愛に生きる
「伝道する」とは キリスト者とは・・・・・・・
生活を御霊の祈りとなすことです。 と語っておられました。
その日マルコ9:14~29を朗読して。
弟子たちの力はからしだねの信仰にも及ばなかった山さえ動かせなかったわたしたちの信仰もその罠があると忠告されていました。
19 イエスは答えて言われた、「ああ、なんと不信仰な時代であろうか。いつまで、わたしはあなたがたのところにおられようかいつまで、わたしはあなたがたを耐え忍べばよいのか。
29 イエスは彼らに言われた、「このたぐいは、祈りによらなければ、どうしても追い出すことはできないのだ」。
わたしはこの聖句がなにを言っているのか解らなかったのですが、無意識に陥っている信仰者(わたし)の驕りに気づくようにいさめているのだと解りました。
真実を待ちます。聖霊の来る時を待ちます。
「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、 あなたがたは力を受けます。」
ところでベネディクト16世のことばに聖霊を感じるので記載します。
この神のみ顔はきわめて具体的です。それはイエス・キリストだからです。
証人とは、その人が他の人に示す生活をまず自分で生きている人のことです。
人間は神との関係において初めて、人間の自由の意味を理解できるようになります。
教育の使命は、人々に真の自由を教えることです。
人間の自由とは、強制がないことでも、自由意思が支配することでもありません。
それは自己を絶対化することでもありません。
人間は、自分は絶対であり、何ものにもだれにも頼らず、望みどおりのことができると考えるなら、
自分の存在の真理に背き、
自らの自由を失ってしまいます。むしろ、人間は関係的な存在です。
人間は、他者、とくに神との関係のうちに生きています。
神と無関係に真の自由を得ることはできません。
自然道徳法こそが公正で平和な共存の基盤となります。
それゆえ、自由を正しく用いることが、正義と平和の推進の中心です。 そのためには、自分と他者を尊重することが求められます。 この他者には、そのあり方と生き方が自分と大きく異なる人も含まれます。
このような態度が次の要素を生み出します。この要素なしには、平和と正義は無内容のことばにすぎないものとなるのです。
すなわち、相互の信頼、建設的な対話を行う能力、人をゆるす力
(人はたえずゆるされることを望みますが、ゆるすことは困難だからです)、互いの愛、弱者への共感、
進んで犠牲を払うことです。
31 見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。
32 この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。
33 しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
34 そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。
旧約聖書にかかれている来たるべき日の出来事が新約聖書にあらわされました。
先日わたしは、京都に行って新約聖書に現わされたイエスキリストの御霊に生きる日本人を訪ねてゆきました。
彼は
聖霊に導かれて聖書を読む
キリストのみ霊の愛に生きる
「伝道する」とは キリスト者とは・・・・・・・
生活を御霊の祈りとなすことです。 と語っておられました。
その日マルコ9:14~29を朗読して。
弟子たちの力はからしだねの信仰にも及ばなかった山さえ動かせなかったわたしたちの信仰もその罠があると忠告されていました。
19 イエスは答えて言われた、「ああ、なんと不信仰な時代であろうか。いつまで、わたしはあなたがたのところにおられようかいつまで、わたしはあなたがたを耐え忍べばよいのか。
29 イエスは彼らに言われた、「このたぐいは、祈りによらなければ、どうしても追い出すことはできないのだ」。
わたしはこの聖句がなにを言っているのか解らなかったのですが、無意識に陥っている信仰者(わたし)の驕りに気づくようにいさめているのだと解りました。
真実を待ちます。聖霊の来る時を待ちます。
「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、 あなたがたは力を受けます。」
ところでベネディクト16世のことばに聖霊を感じるので記載します。
この神のみ顔はきわめて具体的です。それはイエス・キリストだからです。
証人とは、その人が他の人に示す生活をまず自分で生きている人のことです。
人間は神との関係において初めて、人間の自由の意味を理解できるようになります。
教育の使命は、人々に真の自由を教えることです。
人間の自由とは、強制がないことでも、自由意思が支配することでもありません。
それは自己を絶対化することでもありません。
人間は、自分は絶対であり、何ものにもだれにも頼らず、望みどおりのことができると考えるなら、
自分の存在の真理に背き、
自らの自由を失ってしまいます。むしろ、人間は関係的な存在です。
人間は、他者、とくに神との関係のうちに生きています。
神と無関係に真の自由を得ることはできません。
自然道徳法こそが公正で平和な共存の基盤となります。
それゆえ、自由を正しく用いることが、正義と平和の推進の中心です。 そのためには、自分と他者を尊重することが求められます。 この他者には、そのあり方と生き方が自分と大きく異なる人も含まれます。
このような態度が次の要素を生み出します。この要素なしには、平和と正義は無内容のことばにすぎないものとなるのです。
すなわち、相互の信頼、建設的な対話を行う能力、人をゆるす力
(人はたえずゆるされることを望みますが、ゆるすことは困難だからです)、互いの愛、弱者への共感、
進んで犠牲を払うことです。
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