今日は主の日
母の昼ご飯に同席する。
母は雅子ヘウインクしてわたしが母にしきりに食べるように促すのを牽制する。
この人はいったい認知症を患っているのか、正常なのか。
わたしが認知症患者なのか。
救世主の思いは、人の考えとはるかに遠く、
だれも人は自分の道は正しいと思うが主の思いは人とは異なる。
美しい絵画の前で私と母と心癒される。
シヨパンのピアノ曲を聞いて、
1983年雅子と結婚した時、大阪港に帆船祭りのために入港した船乗りたちを思い出す。
一番美しかったのはポーランドの栄誉の礼で素朴な中にあつて高貴だった。
主イエスのように。
母のリハビリのように
持てるもののひとのすべてで表現する真実。
雅子と母とは他人。
このような手と手と取りあう関係はどこからきているのか。
雅子はダニエルの散歩のために日赤から自宅へ。
わたしと母とは日赤病院の中を散歩する。
日赤の人は母のために便秘の薬を昨夜に飲ませてくれている。
お通じかあり、今日もおいしいカステラを四時にデイルームでいただく。
怖いまでにまともな顔つきでわたしに話しかけてくる。
然し何を言っているのかわからない。髪をカットをしてもらってよかったね。
とわたしははぐらかせていうと、嬉しそうにうんと返事する。
静かに日赤で時を過ごす。母との贅沢な午後。
また夕食の時に、わたしは母にとって鬼になるのだろう、母の自由を奪う嫌なものになる。
せめて夕食までの美しい黄昏時だけは母と平和なひと時を過ごしたい。
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