2026年10月12日月曜日

秋の恵みを主に感謝する

 






大山の森に居る若い娘さんから森で拾った栗を戴いた。                                                                   八尾と大山の森を行き来して暮らすの高齢の白澤さんから(丸山の善き隣人の畑を借りて)自ら耕し手作りした茄子を戴いた。







栗は栗ご飯にして。                                 茄子は茄子は煮物にして白ネギと一緒にしていただいた。


ホックの鰆も西京焼きにして、雅子と一緒に蛸と胡瓜の酢の物とともに昼ご飯に戴く。






主より賜る美味しい贈り物。




大山の森に湧き出る温泉もメルキュールの露天風呂で零れ落ちる音を全身に朝ごとに浴びて喜びを味わっています。
                                      



あなたの隣人をあなたのように愛しなさい。



レビ記19章9-10節に記されている落穂ひろいの掟は、旧約聖書の律法に「隣人愛」を個人の中にとどめず、社会的なセーティネットトとして『お互い様を具体化する』実践的な教えです。

同章の18節にある「隣人を自分のように愛しなさい」がこの9節-10節に具体的に示されています。

「あなたたちの土地の収穫を借り入れるときは、畑の隅まで借りつくしてはならない。収穫の後の落穂を拾い集めてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。それらは貧しい者や寄留者のために残しておかなければならない。わたしはあなたたちの神、主である。」


神の愛はあなたの隣人愛すなわち社会的弱者への配慮と尊厳の維持を伴って初めて地に自然が豊かにうるおされるように人々の暮らしも(正義と公正の共通の感覚をもってCommonSence)平和に潤うことを聖書は語っています。



この聖書箇所を現在(特に世界の政治に影響力の強いをリードするアメリカ)の政治に何が必要ことか捉えてみると


相手の「尊厳」を守る仕組みがまず第一に考えられます。
この律法は、富裕層が貧しい人々に直接施し(パンやお金)を「与える」形をとっていません。   あえて畑の隅を残し、落穂をおとしたままにすることで、貧しい人々や寄留者が「自分の手で労働して糧を得る」余地を残しています。これにより、生計を立てる権利と人間の尊厳が守られる仕組みとなっています。

次に私有財産の「絶対化」の制限です。
土地の所有者であっても、その収穫物を100%完全に独占することは許されず、社会の弱者のために一部(畑の隅や落ちた実)を開放することが義務付けられています。
「地とその中にあるものはすべて主のもの」という聖書の土地観に基づき、私有財産を社会全体で分かち合う「公」の意識が組み込まれています。

三番目は対象を「寄留者(外国人、社会的弱者)」にまで広げる普遍性を持つことです。
身内や同胞だけでなく、土地を持たない「寄留者(いわば難民や外国人労働者のような存在)」をもセーフティネットの対象に含めている点は画期的なことで注視するところです。
排他的にならず、コミニティに存在するすべての弱者を包摂する「お互い様」の精神がここにあります。



ナザレのイエスは、律法の中で最も重要な掟は何かと問われた際、「神を愛すること」と「隣人を自分のように愛すること」の二つを挙げ、「これらに勝る掟はない」と答えました。(マルコ12:29-31)

つまり、目に見えない神を愛することの行為は、目に見える「隣人の尊厳を守り、愛すること」を通じて初めて地上に神の国が具現化するということです。

レビ記やマルコによる福音書にある『隣人愛』は抽象的観念にとどまらず、分け合うこと、手を差し伸べること、祈り心を配ること、喜び愛すること、目の前の人の尊厳を大切にするという日々の暮らしそのもの(お互い様のかたち)のなかに主なる神はご用意してくださっているのです。



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