ホサナ。祝福あれ。主のみ名によって来られる方に。イスラエルの王に。
するとイエスが彼らに言われた。「どうして人々は、キリストをダビデの子と言うのですか。
ダビデ自身が詩編の中でこう言っています。『主はわたしの主に言われた。「わたしが、あなたの敵をあなたの足台とする時まで、わたしの右の座に着いていなさい。」』
こういうわけで、ダビデがキリストを主と呼んでいるのに、どうしてキリストがダビデの子でしょう。」
月一回のコイノニア会の集会が土曜日にあり、司会者が愛媛なので帰りの台風の影響を考慮して午後四時に終了する。
そこで昨日のイエスの言葉が気になった。
なぜ、わたしをダビデの子と呼ぶのか。
聖書をよく読んでみなさいと言われているようにも思える。
この場面はマタイ、マルコ、ルカの福音書に書かれていると私市さんは言う。
ヨハネの福音書は80年代、ルカやマルコ、マタイは60年から70年にはできていたので、
栄光を受けられたイエスのことを知っている聖書記者とわたしたちとその後のイスラエルの歴史がどうなったのか、主のみ言葉から考えることではわたしたちと変わらないと強調されたことが印象に残った。
ナザレのイエスは人々からメシアと呼ばれた。
メシアには油そそがれた者という伝統的な認識とは別のイザヤに書かれた受難の僕としての姿がある。こちらの方はイエスとともに過ごした弟子にもご自身が栄光をお受けになるまで積極的に明かされなかったように見える。
このことはわたしたちに聖書記者がそろって認識しているイエスの十字架の贖いの行為が父との約束であると信頼することが出来るか否かにかかっている。
現代人の約束への信頼をなくしてゆく世で 、再び約束が人々に信頼を回復させること。
約束とともに生きられることは永遠の命を生きるにふさわしい大切な信仰となるのです。
ホザナ、平和の主が
人々に平和を実現される。
ナザレのイエスのみ名を呼ぶ者に。
永遠の命を与えられる。 神の約束。
「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にした時、実現した。」
(ルカ4章21節)
「わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、
永遠のいのちを持つ。」
約束の信頼を通して聖霊が生きて働いていることが実感できれば一人ひとりに父への信頼が自ずと湧いてくる。どんなに不都合な出来事に出あっても、神に愛されていること永遠の命に生きていることが生きてゆく自信となる。
あなたの豊かな憐れみによって、唇の罪をぬぐってください。
主よ わたしのくちびるを開いてください。
一人ひとりの唇に言葉が与えられる自由の御霊によって交流しやがて一つにまとめられた信頼が今度は一人ひとりの自由を擁護しそこに連なる者の救いとなって行く共同体を褒めたたえます。
主はわが光、
異常台風が去ってわたしは御言葉を口にしながら夕日の中を散歩しています。
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