福音となんのことですか。
世間では良い知らせと言われています。
良い知らせとは何ですか。
イエスキリストの十字架の贖いです。
はあっ? ほとんどの人にとって ? がまだつつきます。
バチカンでは新法王フランシスコ一世が誕生しました。
私たちの貝塚聖書教会では山里将之牧師が誕生しそうです。
教会制度の指導者の誕生と私たちの贖い主とそこに何の関係があるのでしょう。
安息日は人のために定められたのです。
人が安息日のためにあるのではない。
このように語るナザレのイエスの言葉が
私たちは一人一人の上に聖霊として及んできます。
教会制度に私たちがあるのではない。
私たちは主の十字架の贖いの故に罪から自由になって
一人一人自由に存在するためにある。
自由ゆえに主の贖いの愛に応答するように私たちは集うのです。
イエスをキリストと崇め賛美するために。
よく主の僕と言う表現がありますが、わたしはこの言葉は私には当てはまりません。
イエスはわたし達に友と語りかけておられることで僕ではなりたちません。
神と友となり得る私たちです。
アッシジのフランチェスコ(伊:Francesco d'Assisi、ラテン語:Franciscus ssisiensis、本名 ジョヴァンニ・ディ・ベルナルドーネ Giovanni di Bernardone、1182年 7月5日 - 1226年10月3日)は、フランシスコ会(フランチェスコ会)の創設者として知られるカトリック修道士。「裸のキリストに裸でしたがう」ことを求め、悔悛と「神の国」を説いた。
彼の名を尊ぶ、カトリックの法皇となられるアルゼンチンのブエノス・アイレスで生まれの人にもイエスの霊が及んでいると私は信じている。
このようにして人はイエスにある聖霊によつて集い私たちの父の愛を賛美するのです。
放蕩息子は父の身元に帰ってゆく私たちの姿です。
娘の悠子の放蕩を愛を持って見守る両親のような愛です。
私はあなたの父と母を敬えという神の命令がなぜ十戒にあるのか不思議に思っていました。
私は悠子を失って初めて天の父の愛の深さを知ったのです。
あなたの父と母を敬えは、わが子にたいする父の愛に天の父の愛を重ねることがでる唯
一の現実に経験できる親の子への愛にあるからです。
人の子を愛する気持ちが唯一天の父の御心に等しいものだと語られているのだ
と思います。
母と父がわたしを愛してくれたように、私も悠子を愛しています。
この物語は人格としての悠子は当然親から自立するために親の愛を感じながらも
なお自由のために自らの道を求めることも自然であるという事も含んで語っています。
その時、両親は天の父のように放蕩息子を待つ心境になる。
福音はイエスキリストの贖い。
子である私たち一人一人は父の元から自立して父の愛を疎ましく感じていることから再度父と子の愛を確かめ合う関係に戻ることに素直になることを勧めているように思える。
天にいる創造主と和解することは、私たちの父と母と和解することにあるのです。
御言葉は語っています。あなたの父と母を敬いなさい。
それではどうなりますか
福音とはなんなのですか。
イエスキリストの贖いです。
創造主に祝福された人生を分かち合いながら生きることです。
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