主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか」。 (創世記 三章九節)
園の中央には。いのちの木、それから善悪の知識の木とを生えさせた。
神である主は仰せられた。「見よ。人は我々の一人のようになり。善悪を知るようになった。今、彼が手をのばしいのちの木からもとって食べ、永遠を生きないように。」
創世記の中に描かれた命の木とイエスキリストの永遠のいのちとそこに繋がりの予感がすのはわたしだけだろうか。
わたしはずっと考えてきたことがあります、善悪の知識の木のみが人がとって食べることができ、なぜいのちの木のみが食べごろになっていなかったのだろうかと。
見るからに食べごろになっていたのがいのちのみではなく、
善悪を知る知識のみであったのかという事。
これど摂理。神がそなえられたもの。
然し私たちには、神の時がいたり命の木のみは今が食べごろになっている。
と思えるのです。これも摂理、神がそなえられたもの。
善悪をしることはすでに人間には備わっているということから考えて罪は善と悪とは無
関係のように思われる。
牧師がよく語っているおのれの罪とは悪とか善とかではなく。
すなわち良心に背くことでもない、罪とは本来神のもとにいたところから絶たれている
こと。
いずれ生えてくるであろう永遠のいのちのみからも絶たれている、それにもかかわら
ず人が自らの手で食べようとすること(自己救済の欲求)が罪の本質である気がします
。
神も聖書の中で「自らの手で取って食べてはいけません。」と忠告していました。
永遠のいのちの木のみを自ら手を差し伸べもぎ取ろうとする、人の姿が罪の実態であ
るようにわたしには思える。
イエスの死と復活は、信じる者に永遠のいのちを与える神の創造の二幕めです。
今や私たちは善悪を知る知識の木のみと永遠に生きるいのちのみの両方を得るもの
になりました。
主なる神はおまえはどこにいるのかと尋ねます。
私に語りかけてくる他者に率直に応じること、
他者の言葉から身を引いて屈め隠れずに。
屈託なく返事を他者にすることが出来るか否かが
罪から解放された自由なものであるか否かのようです。
イエスは、わたしたちに見るからに香しいいいのちのみが今は食べごろになっていることを語り告げています。
キリストの死と復活は神の創造への復帰と永遠の命を得る二重の喜びの
成熟の時を宣言しているように思えるのです。
栄子は日曜日に教会に来なかった。父のもとであれこれ世話をしていたようだ。
軽い肺炎でホライズンから東佐野病院へ救急車で搬入され、抗生物質の点滴治療を受けている。
入院治療中ベッドで安静のため尿をとる管を膀胱へ注入していたのを父が自らの手で引っこ抜いて尿道を傷つけて血尿が多量に今も出ているらしい。
肺炎と膀胱炎の二重の治療になっている。
東佐野病院は泌尿器科がなく、万全の治療ができるのか否か栄子が心配している。
率直に治療可能か病院にたずねるように私は栄子に言うも、心境を害するのではないかと案じて尋ねられないのだそうだ。
それなら心配してもしかたがない、心配しないでおけばいいのに、父を心配する気持ちは募るばかりで栄子を二つに裂いている。
妹は那須にいる弟に電話してアドバイスをもらっている。
起こっていることを自分がどう捕え納得するかが優先され、自分の外で起こっている事にどう処置対処するかは、納得の後になる。
私たちはみんな自分の気持ちが納得するまで、自分の外にあるできごとにかかわるのを放置してしまう傾向があるようです。
私たちの性質の本来の姿です。
ただ私たちの外にある出来事が私たちの思考を決定してゆくことも
真実なのです。
難しいのはどのように納得するかが難しいのです。
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