2013年2月10日日曜日

主の日の礼拝と昼飯



ワールドカッブスキー競技がオーストリアで開催されている。
母は目覚めてトイレへ。






健康を測る具体的な指標に目覚めがある。
今日ははずれ、然しベッドに座ることができるのは良し。




あと母の健康の指標に血圧脈拍体温があるほか、歩くこと、食欲がある。




貝塚聖書教会は先週から山里将之牧師家族をお迎えしている。
主日礼拝のメッセージは信頼について語っています。





しるしを求める信仰は結局神を自分に奉仕させる信仰になる。
すなわち偶像礼拝である。

信頼する信仰は神を信頼して期待して待ち望む、約束を信じることに尽きる。








なにを待ち望むのでしょう、み聖霊の働きです。
人が神に与えられた恵みを生きる、神の真実を生きるためです。






神は何を与えてくれたのでしよう。
イエスキリストです。





イエスは杯を取り感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。




これは私の契約の血です、多くの人々のためにながされるものです。




しるしはヨナのしるしのほかは与えられない。

三日三晩魚の腹の中にいたヨナはニネベで神が罪びとの都会を滅ぼしつくすのかと見守っていると、13万人もいる右も左もわきまえられずにいる人をどうして滅ぼしつくすことができよう、あなたが自分で生やせた訳でもないトウゴマを欲しむように、私はどうして大いなる町ニネベを惜しまずにいられよう。と言われた主の御心に気づくのです。




私たちが神に惜しまれている外に主の恵みがあるだろうか。





伴侶が与えられ。
日々の糧に満たされて、どうして感謝と喜びが満ち溢れてこらずにおられましよう。




犬のダニエルさえ私たちとともに平和に暮らすことを願っている。





Poupille Cotes de castillon 2007




葡萄酒とともに美味しい馬面剥の魚ちり。




あなたはわたしたちの負い目を赦されました、わたしたちも私たちに負いめのある人を赦しました。







三日目に死から復活するイエスが語った
ヨナのしるしはこのことです。











 

2013年2月9日土曜日

Marquis De Calon Saint-Estephe



一日ベッドで過ごすと翌朝は元気に目覚める。




然し食事のころには目をつぶったままの生活になり、
ホライズンへ出かけるころには眠ったままになる。




意識はあるので、立ち上がり歩くことができる。







母がホライズンに出かけるとダニエルの散歩が始まる。





私たちにとって昼飯が憩いになる。




ワインを開けて食事をいただく。





赤ワインは私たちのために流されたイエスの血。




あたらしい契約に生きるために飲みなさいと勧められている。




恵みの中を感謝して喜びに満ちて、新しい命に生きる。





Marquis De calon Saint-Estephe 2007
雅子曰くまろやかなで万人受するワインらしい。







 

2013年2月8日金曜日

イエスは喜び



Chateau Senejac 2007  Haut-Medoc

 
バプテスマのヨハネの日以来今日まで、
天の御国は激しく攻められています。 
これは何を意味しているのでしょう。 

 
 
 


信仰は力づくのものではないということです。


一番肝心なことは神が人のために命をささげられた。


人はそれを認め感謝することです。
 

人が神の代わりはできません。



神の恵みを有難たく頂戴する以外何ができるのでしよう。
 
 
 ワインのようにイエスは喜びです。
 
 
神と人との和解は私とあなたとの和解であり、
イエスの復活は私たちに平和が実現することを確信させて
くれます。

 






Chateau de Parenchere Cuvee Raphael 2007


 

2013年2月6日水曜日

裁きあうことがないために情報公開が必要です




ホライズンで院内感染が発生しているので、父と母が
会うことができない。






ホライズンの判断で母がいるディの一階のフロアーと父のいる二階のフロアーと院内感染を避けるために面会が禁止された。









母を介護するわたしへホライズンで起こっている院内感染の状況説明はない。






































人はおのれの利益を優先する生来の性質がある。
生まれながらの性質は他者の利益を優先することはありえない。













イエスの贖いはお互いの不真実を明らかにします。
それゆえ自分の思い込みによる正当性で他者を裁くことはやめにしょうと言っています。

パウロも同じことを弱い者の妨げとなるものに強い者の主張を控え弱いもののことを配慮しようと言っています。弱いものも強いものもイエスのみ前で等しく贖われているからです。








聖書のこれらのことはなにを語っているのでしょう。

わたしは神がよしとされる者がそこに残りそこに立ち続けることができると思っているのです。

誰がよしとされるのかは私たちには分かりません、それゆえ誰もがおのれの主張に自信を持つことは大切ですが、誰の主張が残るとは限らないゆえにだれもが情報に接し公平さを維持することが必要になるのです。

私はイエスは人を救うために十字架に神の情報を開示されたのだと思います。
それは私たちもイエスに習い自らを人の前に情報を開示して真実を得るためです。






2013年2月4日月曜日

今日は立春主の日は節分だった



節分は寒い冬の季節と暖かい春の季節を分ける境目。
聖書では境目は最初のアダムと最後のアダムである
イエスの十字架の行為に現れて神への従順と不従順とを分ける、
人の死と永遠の命の境目になる。





一人の人の行為が全ての人に及ぶとすれば、それぞれの行為は例外ではない。





私たちは個人が他の人に影響する時代に生きている。




お互い関連する世界に生きている。
その世界に神の愛と平和が息づくように私たちに福音が届けられている。







 

2013年2月1日金曜日

如月



きさらぎ、どことなく冷たい響きがある。二月春まだ遠い。






一年前とは、わたしも母も歳をとったのが解る。




主治医が母は春を越せないと診断したが、条件がある。
介護によって変わるらしい。





雅子は静かに眠っている時、心配に思わず手を鼻にかざすという。
わたしは体を触ったら判断できるという。
そういいながら今まで気づかなかったことがある。
母は暖かいのは生きているのだという事。