2021年12月19日日曜日

アドベント第四週の主日礼拝

 

花帆ちゃんはめぐみの園でつくったリースをこっそりツリーの下に隠してパパとママの驚く姿を見る『ビックリ作戦』を行って大成功していました。




わたしたちはクリスマス礼拝にインターネットで参加する。


アドベントとはもともとラテン語のAdventusに由来して『到来』を意味する言葉で、『わたしが道であり、真理であり、命であるインマヌエル』が人々の間に到来するのを待ち望む待降節へ転じたと山里牧師はアドベント第一週に語っていた。



今日久留米キリスト教会の踊牧師はものごとの道理を明らかにするという言葉が『諦』あきらめという漢字が充てられているという。
諦観とは本質を明らかに見て取ること。悟りの境地にあって物事を見ること。


それが、人の悟りがあきらめることに転じて行く語に反して、ナザレのイエスの語ったみ言葉「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きてわたしを信じる者は、決して死ぬことはありません。このことを信じますか」に死から復活へキリストと同じように歩み出すことができるように、友愛を諦めない神の言葉としてあなたの善き隣人が生活の場にいます。
わたしはあなたと共に居る。わたしはあなたを見捨て孤児としないみ言葉に、神と人の言葉の先に決して諦めで終わらない隣人の存在のリアリティを感じました。


誤りのない判断の基準を自らの判断に置く故に誤りのない判断をするために悟りの境地まで自らの判断基準を聖かし清らかにしないといけないと誠実なものは思ってしまうだろう。しかし詰まるところ失敗する。何故なら自らの間違いを犯すことを人はぬきにして、信じるに足りるものを本当に人は信じられるのか、そしてこれと同じように自らの愚かさをなかったことにはできないように、大切なことだが、他人の愚かさも無視できるほどの寛容に達することが出来るのか、単独の悟りを基準とするとすべてが不完全で不確かで道理を明らかにするはずが人には諦めとなる。

信頼に足りるものはもともと対象が信頼に足る本質をもっていて自分が信じようが、他の誰であれ、どなたの前にも変わらないものであるとすれは゛、人が諦めようが悟ろうが、真理は人によって変わらないはずである。

とすれば、人の真理への道へ到達する失敗は結局、単独者の悟りに重きをかけた失敗と同様に自分の判断の価値にこだわりたがっていることからこそ生じている。

判断の基準を自らの正しさにおいている誤りは、人の傲慢さから生まれている。
イエスがニコデモに言ったように人は新しく生れなければ神の国を見ることはない、新しく生れる判断の基準は意外にも人は創造の始めから神によって与えられている。
失敗を許されてやり直せることにある。孤独な単独な一人ではなく複数で支え助け合って生きている存在の自覚をとりもどした人々の間に生れるてくる、共同の真理という不思議。それぞれの主観の不確かさが赦され複数の間主観でとらえる真理へのアプローチ、神の叡智というキリストが生活の場に善き隣人としていることによる共同の共通真理CommonSense【民主主義】を信仰してみてはとアドベント第四に思う。





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