久留米に九州初オープンした神戸のワールドブッフェというところに行ってます!
悠子から雪の森に頼りが届く。
主の日の朝は
喜びの朝、空がはれて雪がやんでいます。
暖かい光が差してきて、雅子と朝食を主に感謝していだいています。
「生き延びることができるものは生き延びよ」。
Sauve qui peut
このメッセージが極限的状況において発せられるものでありながら、決して絶望的なものに感じられないのは、この三単語から成る文が命令文であり、かつ、「救う」(sauver)と「できる」(pouvoir)というふたつの希望の動詞を含んでいるからだと私は思う。
死を目前にしている「私」が、それでもひとりでないということである。
そして、その命令文は相手に向かって、厳密には相手の潜在している可能性に焦点を合わせて「(仮に私は死んでも)あなたに生き延びて欲しい」と告げている。
これは人間が他者に向けることのできる祝福の言葉の極限的なかたちではないだろうか。
死を前にした極限的な場面においてなお祝福の言葉を贈る相手がいる、その可能性を信じることのできる相手がいるという事実のうちに、この言葉の「救い」はあると私は思う。
(2015年8月11日)
内田 樹氏の祝福の言葉について述べているのと同じように呪いの言葉についても述べている個所がある。
反対に、
自分自身には直接的利益をもたらさないけれど。他者が何かを失い、傷つき、穢されることを間接的利益として悦ぶと言うありようをいう言葉が「呪い」という。
他者がこうむる社会的な損失や心理的な傷をおのれの「得点」にカウントするというこの「呪い」の習慣は、今の私たちの社会では「言論の自由」の名において擁護されている。
私は「呪いの言葉」も「言論の自由」という大義において擁護されるべきかどうかという原理的な問題について考えてみたいと思う。
自分自身には直接的利益をもたらさないけれど。他者が何かを失い、傷つき、穢されることを間接的利益として悦ぶと言うありようをいう言葉が「呪い」という。
他者がこうむる社会的な損失や心理的な傷をおのれの「得点」にカウントするというこの「呪い」の習慣は、今の私たちの社会では「言論の自由」の名において擁護されている。
私は「呪いの言葉」も「言論の自由」という大義において擁護されるべきかどうかという原理的な問題について考えてみたいと思う。
言葉はそれが誰かに聞き届けられるためのものである限り口にされる権利がある。
これが「言論の自由」の根本原理と私の信じるものである。
およそ人間の脳裏に生じたすべての言葉は、それが人間の脳裏に生じたという一事を以って、
何らかの人間的真理を表示している。そして、どのようなものであれ
(それが人間の知れぬ邪悪さや愚かさについての真理であっても)、人間にかかわる真理
は沈黙に勝る。
アメリカの言語学者ノーム・チョムスキーは、「言論の自由」を擁護する立場から、
人は誰であれ言いたいことを言う権利があり、とりわけ、その意見が人々の神経を逆なでするようなものの場合は、一層擁護されねばならないと書いた。
美しい言葉だ。けれども、私はこのチョムスキーの擁護論に軽々には同意することができない。
ことの真偽はともあれ、それによって傷つく人がどれほどいようと、汚される価値がどれほどあろうと、誰にでも言いたいことを言う権利はあるという言葉に私は同意しない。
無人の荒野で、空に向かって語っているわけではないからだ。
すべての言葉はそれを聴く人、読む人がいる。
私たちが発語するのは、言葉が受信する人々に受け容れられ、聴き入れられ、できることなら、同意されることを望んでいるからである。だとすれば、そのとき、発信者には受信者に対する「敬意」がなくてはすまされまい。
『いったいだれが、天の国で一番偉いのでしょうか。』と言った。そこでイエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、言われた。『はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国で一番偉いのだ。わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。』 (マタイ18:1~5)
発語は本質的に懇請である。私はそう思っている。聞き届けられることを望まないで語られる言葉というものは存在しない。
言論の自由が問題になるときには、まずその発言者に受信者の知性や倫理性に対する敬意が十分に含まれているかどうかが問われなければならない。というのは、受信者に対する敬意がなければ言論の自由にはもう存在する意味がないからである。
「言論の自由」は、自分の発する言葉の正否真偽について、その価値と意味について、それが記憶されるべきものか忘却に任されるべきものかどうか吟味し査定するのは私ではなく他者たちであるという約定に同意署名する人間だけに請求権がある。
自分が発する言葉は、他者に聴き取られなくても、同意されなくても、
信認されなくても、その意味と価値をいささかも減じないと言い張る人間には
「言論の自由」を請求する権利がない。
なぜなら、彼の言葉は他者たちの場に差し出されるに先立って、すでに真理であることが確定しているからである。
もし、言論の正否真偽を審問する場の成立に先立って、
すでに真理である言葉が存在しうるなら、「自由な言論の場」に存在理由はない。
言論の自由とは端的に「誰でも言いたいことを言う権利がある」ということではない。発言の正否真偽を判定するのは、発言者本人ではなく(もちろん「神」や独裁者でもなく)、「自由な言論のゆきかう場」そのものであるという同意のことである。
言論がそこに差し出されることによって、真偽を問われ、正否を吟味され、
効果を査定される、
そのような「場が存在する」ということへの信用供与抜きに
「言論の自由」はありえない。
久しぶりにズーちゃんに会う。暖かい歓迎をしてくれる。
私が言葉を差し出す相手がいる。それが誰であるか私は知らない。
どれほど知性的であるのか、どれほど倫理的であるのか、
どれほど情緒的に成熟しているのか、私は知らない。
けれども、その見知らぬ相手に私の言葉の正否真偽を査定する権利を
「付託する」という保証のない信認だけが自由な言論の場を起動させる。
まず他者への贈与があり、それから、運動が始まる。
「場の審判力」への無償の信認からしか言論の自由な往還は始まらない。
もし、言論が自由に行き交うこの場の「価値判定力」を信じなかったら、私たちは何を信じればよいのか。
「場の審判力」を信じられない人間は、「私の言うことは正しい」ということを前件にして言葉を語り出すことしかできない。「お前たちが私の言うことを否定しようと、反対しようと、それによって私の言うことの真理性は少しも揺るがない」と言わなければならない。
しかし、もしそうだとしたら、彼には「自由な言論が行き交う場」に言葉を差し出さなければならないいかなる必然性があるのだろうか。せいぜい、洗脳、宣伝、教化のために功利的に利用することしかできまい。むろん、その場合には、彼の言葉に対するすべての疑問や異議申し立ては「真理」の名において退けられる。
しかし、もしそうだとしたら、彼には「自由な言論が行き交う場」に言葉を差し出さなければならないいかなる必然性があるのだろうか。せいぜい、洗脳、宣伝、教化のために功利的に利用することしかできまい。むろん、その場合には、彼の言葉に対するすべての疑問や異議申し立ては「真理」の名において退けられる。
だが、そのような言論のありようを「言論の自由」のみごとな実現であると思う人間は一人もいない。
言論の自由とは、まさにその「場の審判力」に対する信認のことだからである。
言論において私たちが共有できるのは、それぞれの真理ではない(それは「それぞれの真理」であるという時点ですでに共有されていない)。私たち「それぞれの真理」の理非が判定される「共同的な場」が存在するということについての合意だけである。
そのような「場」はレディメイドのものとして、制度的にごろりとそこにある、というものではない。それは私たちが身銭を切って、額に汗して、創り出さなければならないものである。
だからこそ、「日本には言論の自由がない」と書いた社会学者の言葉に私はつよい違和感を覚えたのである。「言論の自由」とは「場の審判力に対する信認」のことであり、
「私は私が今発している当の言葉の正否真偽を査定する場の審判力を信じる」という遂行的な「誓い」の言葉を通じてしか実現しない。
そのような場は「存在するか、しないか」という事実認知的なレベルではなく、そのような場を「存在させるか、させないか」という遂行的なレベルに出来するのである。
「場への信認」は私が今現に言葉を差し出している当の相手の知性と倫理性に対する敬意を通じて、今この場で構築される他ないのである。
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:14)
正しさを担保するのは正しさではない(それは「私は正しい。なぜなら私は正しいからだ」という原理主義的な同語反復にしか帰着しない)。
正しさを担保するのは正否の判定を他者に付託できるという人間的事実である。
誤解されないように急いで付け加えるが、
この付託は現に他者たちが過たず真偽正否の判定を下すという事実に基礎づけられているのではない。
そうではなくて、この付託によって、真偽正否の判定を下しうるような知性と倫理性に「生き延びるチャンスを与える」ことができるという事実に基礎づけられているのである。
信認だけが、人間を信認に耐えるものにする。
そのことを私は「受信者への敬意」、「受信者への予祝」、
あるいは端的にディセンシー(decency 礼儀正しさ)と呼んでいるのである。
それは「呪い」の対極にあるところのものである。
内田 樹氏の言論の自由についての見解です。
ハンナ・アーレントの公共性とエマニュエル・レヴィナスの他者性とを含んだ彼の証言よりイエスの宣教、神の国が近づいたを思い浮かべる。
主の十字架は肉と血を持つものに呪から祝福への変容に与る招きの言葉。
それは、イエスがわたしたちの呪いとなって呪いから神の祝福に生きる者に差し出された神の生きたみ言葉の贈与です。
内田氏によれば発話者の懇請です。
「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」(マタイ6:33)。
神の国とはイエスに贖われた罪びとたちの共同体。
イエスの宣教は人々を神の国に招き入れるためでした。
呪いから祝福の言葉に与る人々を招くために。
「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です」(ヨハネ15:5)
あなたは今日わたしとともにパラダイスにいる。
あなたが立ち直ったら仲間たちを励ましてあげなさい。
誰がこの人の隣人になりましたか。行ってあなたも同じようにしなさい。
その奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということです。
隔ての壁を打ち破り二つのものを一つされる聖霊の御力を崇め賛美します。
キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。
(エペソ2:14〜16)
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