朝風呂から帰ると、わたしに、良い松葉蟹が入ったのでまた連絡すると言って電話が切れたと雅子から報告がある。
キリスト教と公共性「アーレントの公的なものを巡って」今出敏彦氏の論文を読んでいると
露天商の烏賊焼きそばの携帯からわたしの携帯に呼び出しがはいる。
今境港で仕事中だが、あんたに頼まれていた生蟹と刺身によいはまちが手に入ったから、途中の寿城までもっていくからそこまで引き取りにおいでとのこと。
喜んで寿城におりてゆき、今日の昼ごはんとなる。
もう雪が解ける春まで合われないと思っていたのに、嬉しい便り。
早速、焼き蟹と鍋でいただきました。
鳥取に来て松葉ガニを食卓で食べられないとつまらないと雅子と話していた矢先
新鮮な蟹に堪能する。
ダニエルはあまり蟹には興味を示さず、
雅子曰くおねだりしてももらわれないのが解っているから、
大人しくしています。
悠子たちが訪れた時湯豆腐と、紅ズワイにしようと思っている。
また、おじさんに連絡すれば寿城までもってきてくれるだろうか。
蟹を巡る約束に、アーレントの公的なものを巡って」今出敏彦氏の論文から面白いアーレントの言葉にハイライトをつけた。
「生を営む為には、赦しと放免が必要であり、人々を、彼らが知らず に行った行為から絶えず解放しなければならない。人々は、このように自分の行った 行為から絶えず解放されることによってのみ、自由な行為者に留まることが出来るの である」(HC,p.238)。
自分の明日さえ分からず、しかも自分の行為の結果を予見することすら出来ぬ我々 にとって救済をもたらすのは、約束する能力である。
「約束の履行に拘束されることが なければ、我々は、自らのアイデンティティを維持することが出来ないであろう。我々 は、頼るものも、進む方向もなく、各人が孤独な心の暗闇を彷徨うべく運命づけられ、 矛盾と曖昧さの中に捕縛されるからである。
この暗闇を追い散らすことが出来るのは、 他者の存在によって公的領域を照らす光だけである。何故なら、この他者は、約束す る人とそれを実行する人とが同一人物であることを確証するからである」(HC,p.240)。
約束について、蟹を届けてくれる隣人のいることは、また私も隣人に対して同じ約束をはたすものであると信じられている二重の嬉しさを、冬の味覚とともに味わった。
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