2015年3月30日月曜日

πάσχειν paschein の時



ホサナ hosannaヘブライ語で救いたまえの意味。
イエスがロバの子に乗ってエレサレム入場のおり歓喜した民衆は口々に叫んだ言葉。
それが三日もたたないうちに同じ口が殺せ殺せと叫び出す。




物事をありのままに、判断しようとするのではなく、自分の中に期待を膨らませ
自分の都合のいいように判断している人の認識の罪性に原因があります。

人々の側の期待とそれが実現しない時の不満の爆発。大衆の心理のリアリティを如実に表している。



ゼカリヤ書9章9~10節
「シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜り、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに」




イエスの弟子もシオンの人々も旧約の聖書に書かれていることが今現実に到来して目の前で起こっているのだと認識した人は一人もいなかった。



ただ一人、この方はまことに神の子であった。
とローマの百人隊長が語る。



一緒に最後の晩餐をいただいた人でもなく、賛美歌を歌って神をともに賛美した人でもなく、イエスを処刑執行した、異邦人ローマ兵の言葉です。





彼の目は後の使徒たちの語る言葉にも通じる。
わたしたちとしては自分の見たもの聞いたことを語らないわけにはいかない。




十字架のイエスを自分の目で見、自分の耳で聞き、他者に語る。

パウロの証言するイエスの復活もこのようにして彼の目をとおして表現されました。

その前に目から鱗のようなものが落ちたとありましたが。

人の持っている大柄さ傲慢・身勝手な期待・他者への無関心・偏見が人々に真実と向き合うことを妨げているのです。



何もかもなくし我にたちかえったとき、未だ有り余るほどのものがあふれていることに気づいた放蕩息子の認識はあなたは私とともにパラダイスにいると語られるイエスとともにいる時なのでしょう。



天地創造の、父の御力がイエスを死からよみがえらせられたように、同じ力が私たちを甦らせてくださって永遠の命へと導いてくださっているのを感じます。



復活の力はどこから来るのでしよう。
立返って静かにすれば、あなた方は救われ。
落ち着いて信頼すればあなた方は力を得る。



みなぎる力、私には持ちえない力は神にたちかえり信頼することによって与えられると
主の苦しみと復活。キリストイエスご自身の肉体と血潮で私に証しされているようです。




わたしと雅子と結婚から子育て娘の自立と母のみおくり。
そして再び雅子と二人のこれからの人生に思いをむけるときに。




まず静かにしてみ前に祈る。



若葉に土地を取得して自宅を建て子育てをして定年をむかえられたことを感謝します。
その間30年間、私たちの服は擦り切れず靴も破れなかった。



定年後放蕩息子のように湯水のごとく夫婦であちらこちら旅行して食べ歩いて
気付いてみればベランダは垂れ下がり屋根は剥げて薄くなり、壁は雨水で老化し、いたるところから音がする。

補修して住み続けるには大きな費用がいりそれを工面できない現実がある。



放蕩息子のような私たちの現実逃避は。
娘は気づいていないが、親のもとから姿を突然消したような独立宣言に、
私たちは傷心していた。
その傷を埋めるための放蕩だったと知っている。

母親の介護は実に神様が与えてくださった悔い改めの機会であった。



母が昇天し、育児の役割を終えた家は今また私たちに悔い改めの機会を与えてくれている。


不動産専門業者に当たって、得た結論は。
自宅の家は個性が強く一般的でないので転売は難しく、建坪が大きいので補修するには費用が掛かりすぎ引き取っても転売に向かないとのことである。

不動産業者に土地の相場から立て壊しにかかる費用を引いての買取を持ちかけていたが相手にされない事実を知った。



そして雅子と話し合って得た結論は大山の別荘で暮らす決定、
自宅を取り壊して更地にして時期を見て現金化することを選択した。




静まって落ち着いて考えよう。
雅子曰く水間の家も40年経ってぼろぼろやけどまだお姉ちゃん住んでいる。

そんなに簡単に壊れない、そうです雨漏りを桶で受けて暮らせばいいのです。




今年も蘭は花をつけました。桜も花を咲かせようとしています。
三年ぶりに雅子とお花見に水間公園へ行こう。

ここ四年以内に大山へ引っ越して自宅を取り壊そうと思っています。






住まいの安全性からもっと早まるかもしれない。

自分の目で見自分の耳で聞き判断して他者に語り、返答されて平和に日々を暮らしてゆこう。












2015年3月25日水曜日

時の到来


雅子と二人の、若葉での生活も変化の時をむかえているのに気付く。




天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。




私たちには娘が家を出てゆき一人暮らしを好む現実を知ると、
若葉と大山と共に維持する意味がなくなっている。






娘が自立すると今はダニエルに愛情をむけるだけで、私たち夫婦は飲み食いして過ごすのみとなる。




体は弱り、将来が見なくなり、得た資産も維持できなく、
母を看病してきずかなかったが、私たちも自分たちの現実にきずかずに過ごしてきたのを知った。



今や、選択の時、



子育ての若葉の生活を終えるために夫婦でよく話し合って、




新しい暮らしを勇気をもって歩んでゆかなくてはならない。



若葉にあるものは、みんな新しい生活に不要なものばかり、



宝物として買ったものは今や粗大ごみとなっているのに気付く。




お互い命を与えられていることを喜ぼう。
困難な時を通り越えて残ったのは、夫婦。





雅子は寂しい森の中の雪と暖炉と二人だけの暮らしは




とても耐えがたい選択になるだろう。





なにもない、アカマツと雑木と草と水と小鳥と夫婦二人だけの暮らしに



わたしも、便利で都会の快適な暮らしを断ち切る思いは直ちに選択しずらい。



アブラハムにわたしが示す道へ行けと言われた神は私にも言われる。
夫婦に新しい人との出会いに、





あなたのいる場所を発って
わたしの示す道を行けと。新しい時を求めて旅立とう。




  





 

2015年3月4日水曜日

主のみ名を呼ぶもの



創世記より
人は、その妻エバを知った。彼女はみごもってカインを産み、『私は、主によってひとりの男子を得た。』と言った。彼女は、それからまた、弟アベルを産んだ。

アダムとエバに息子が誕生する。その時エバは、「わたしは主によって、ひとりの男子を得た」と言っている。次男の時は言葉がない。


エバに再び出産がおとずれる。




彼女は男の子を生みセツと名づける、「神はアベルの代りに、ひとりの子をわたしに授けられました」 と再び言葉を語っています。

カインは鍛冶屋という意味を持ち、物を造る能力、人は武器と像をつくる能力を持つ。
アベルは「霧」「息」の意味で、非常にはかないことを表す言葉。
セツは「立てる、固定させる」「備える置く」を含む言葉。

セツの誕生によって、神が備えられたと、エバはカインの時のようではなく、神によって固く立てられた新しい始まりを、感謝しているようすが私たちはエバの言葉で見ることができる。

カインの時はエバは主によって男子イシユを得たと言っている。イシャのエバがイシュ人を出産できる力に、神に感謝するよりはそれに満足しているエバの姿を見る。

人が神の御力を知る二通りの認識を私たちはエバをとうして知る。

神の力が私にあるという認識と、私は無力だが神が力を備えられるという認識。




エノーシュの語源は壊れやすい、癒えない、治らない 人間の一側面を言い表す言葉。
「主よ。彼らに恐れを起こさせてください。 おのれが、ただ、人間にすぎないことを」
人の日は草のよう。野の花のように咲く。風がそこを過ぎると、それは、もはやない。
この聖句の人間、人がエノーシュ。




セツにもまた男の子が生れた。彼はその名をエノシュと名づけた。この時、人々は主の名を呼び始めた。 私はこの主の名を呼ぶもの、パウロが思わず口をついて出てきた言葉を思い出します。
難破の時やアジア宣教の時に、ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。
心のうちで死を覚悟し、自分自身を頼みとしないで、死人をよみがえらせて下さる神を頼みとするに至りました。そのような人エノーシュは主のみ名を呼ぶもの。




セツの系譜がある中で、神の面前から去ってゆき流離の民として生きるカインの系譜もまた一方にある、ともに神に愛されている人間であることを聖書は証ししている。

カインはその妻を知った。彼女はみごもってエノクを産んだ。カインは町を建て、その町の名をその子の名にしたがって、エノクと名づけた。・・・・ エノクにはイラデが生れ・・・ヤバルを産んだ。彼は天幕に住んで、家畜を飼う者の先祖となった。 その弟の名はユバルといった。彼は琴や笛を執るすべての者の先祖となった。チラもまたトバルカインを産んだ。彼は青銅や鉄のすべての刃物を鍛える者となった。・・・

人間が持っている制作する能力、音楽を奏で楽しむ芸術創作の能力、都市を築き家畜を飼育し財産を管理する能力、これらは天来の神によっていただいた人間に備わっている能力である。

人間は肉体を維持するために労働し、生活をよくするため制作する仕事に励み、生きている喜びの賛歌に創作があり、そして他者とともに共同体を形成する活動が主によって備えられている。




セツとカインの系譜に共通の名メレクとエノクがある。
人間に神に従う頼むエノクの名とそれとは真逆のメレクの名がともに併せ持ってあるのは興味深い。

そのような人間のカインの系統メレクの性質は負の側面を持っていることを聖書は著す。


レメク(強い者・征服者)はその妻たちに言った、
「アダ(飾リ立てる)とチラ(陰険)よ、わたしの声を聞け、
レメクの妻たちよ、わたしの言葉に耳を傾けよ。
わたしは受ける傷のために、人を殺し、
受ける打ち傷のために、わたしは若者を殺す。
カインのための復讐が七倍ならば、
レメクのための復讐は七十七倍」。


主はカインに言われた、「いや、そうではない。だれでもカインを殺す者は七倍の復讐を受けるでしょう」。そして主はカインを見付ける者が、だれも彼を打ち殺すことのないように、彼に一つのしるしをつけられた。これが神様の赦されたしるしなのだが神を恐れないメレクは復讐のルールを自ら造り出し七倍を七十七倍にと平然と豪語している。

レメクに人間の奢りの側面、負の側面すなわち自由の代価を聖書は証ししている。






神なくして平然と生きるメレクと主のみ名を呼ぶエノシュや主に従い頼る祈る系統エノクが人間の誕生に名づけられている。


被造物である人間の共通の名メレクとエノクは人間は二つの系譜を併せ持つものであるのを知っておくように、聖書は人に思い起こさせる名として創世記に在ります。