五月の母の日常をピックアップ。すでに六月に入りました。
ダニエルとフィラリアの予防のため矢野動物病院へゆく。
ずうっと聖書に書かれている、オリーブ山でイエスの昇天の折ぽかぁ~んと天を見上げている弟子たちのように、あなたたちはいつまで天を見上げているのですかと白い衣を着た二人の人に言われた同じ状態で、主イエスが語られた、『聖霊があなたたちの上に臨まれる時あなたたちは力を受けます』この言葉について考えを巡らせていた。
聖霊があなたたちの上に臨まれる時あなたたちは力を受けます。そしてイエスの証人となる。
主の御霊のあるところ。この自由について考えていた。
ハンナ・アーレント 過去と未来の間 政治思想への8試論
自由とは何かより抜粋
自由は人間が所有するものではない。人間、より適切にいいかえれば、世界のうちに人間が到来すること、このことによって自由は宇宙のうちに現れる。つまり、人間が自由であるのは、人間が一つの始まりだからであり、宇宙がすでに出現した後にそのように創造されたからである。「始まりが存在せんがために人間が創られた。この始まり以前には何者も存在しなかった」 (Initium ut esset, creatus est homo, ante quem nemo fuit.)
人間が一人一人誕生するごとに、この最初の始まりはあらためて確証される。なぜなら、そのつど、すでに存在し各人の死後も存在し続ける世界のうちに、あたらしい何かがもたらされるからである。人間はそれ自らが始まりであるゆえに、始めることができる。人間であることと自由であることはまったく同一の事柄である。神は、世界のうちに始まりの能力すなわち自由を導き入れるために、人間を創造したのである。
新しい始まりは、本性そのものからして、「およそありそうもないこと」としてそのつど世界のうちへ割って入る。しかもわれわれがリアルと呼ぶあらゆる物事の成り立ちそのものを実際に構成しているのは、まさにこうした「およそありそうもないこと」である。われわれの存在全体は、究極的には、一連の奇蹟、いわば、地球に存在者が生まれ、そこで有機的生命が発達し、動物の種から人類が進化したという奇蹟に基づいている。
どれも「およそありそうもないこと」であって、日常語にいう「奇蹟」にほかならない。人びとが恐怖や希望を抱きながらどれほど予期していたにしても、ひとたび出来事が起こると驚きの衝撃が走るのは、すべてのリアリティに現前するこうした「奇蹟的なもの」の要素のためである。
出来事の衝撃そのものはけっして完全には説明されえない。出来事の事実性は原理的に一切の予期を超えている。われわれが出来事を奇蹟として受けとめる経験は、恣意的なものでもなければことさら知性を必要とするものでもない。それは、反対に最も自然なもの、しかも実際にほとんどありふれた日常生活の経験である。このありふれた経験がなければ、宗教が超自然的な奇蹟にあてた部分もほとんど理解不能であったろう。
自然の過程が「およそありそうもないこと」の到来によってさえぎられる事例を選んだのは、われわれが日常経験によってリアルと呼ぶもののほとんどが、小説よりも奇なる偶然の一致によって存在するにいたったことをわかりやすく示すためである。もとよりこの例には限界があり、人間の事柄の領域に単純に適用できるわけではない。歴史ないし政治の過程が自動的となっているところに、奇蹟つまり「およそありそうもないこと」を待望するのは、完全には退けえないにしても、まったくの迷信だろう。しかし、歴史は[たんなる自動的過程ではなく]自然と対照的に出来事に充ちている。この領域では、偶然や「およそありそうもないこと」としての奇蹟が頻繁に起こるために、奇蹟を口にすること自体が奇妙であるように思える。
しかし、このように奇蹟が頻繁に起こるのは、歴史の過程が人間のイニシアティヴ、つまり、行為する存在者としての人間のもつ始まりイニティウムによって創造されしかも絶えず妨げられるからにほかならない。したがって、政治の領域において、予見不可能なもの、予言不可能なものを念頭におき、「奇蹟」にそなえそれを見込んでおくことは。迷信どころかリアリズムの勧告ですらある。天秤が凶事に傾けば傾くほど、自由に為された行いはそれだけ奇蹟的なものとして現れる。
というのは、つねに自動的に生じそれゆえつねに抗しがたく映らざるえないのは、救済ではなく凶事だからである。
客観的にみれば、すなわち、人間は始まりであり始める者であることをまったく度外視して外から眺めれば、明日も昨日と変わらない確率はつねに圧倒的である。この確率はたしかに絶対的ではないが、地球が宇宙の出現から生じなかった確率、生命が非有機的過程から発展しなかった確率、人間が動物の生命の進化から姿を現わさなかった確率にほぼ等しい。
われわれ地球の生命のリアリティが基づく「およそありそうもないこと」と、歴史的なリアリティを樹立する出来事に内在する奇蹟ともいえる性格との間には決定的なちがいがあり、われわれは人間の事柄の領域においては「奇蹟」の作者を知っている。
奇蹟を実演する人びと、自由および行為という二つの天分を受けとっているがゆえに、自ら自身のリアリティを樹立できる人びとなのである。
イエスは立って大声でいわれた。
「わたしを信じる者は、聖書が言っているとうりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」
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