朝食を確りと取って貝塚聖書教会へクリスマス礼拝に行く。
教会ではすでに生誕劇が始まっていた。
キリストの誕生をお祝いするこの劇が世界中で演じられるのは聖家族が
私たちの家族と重なっているからだと思います。
ベネディクト16世の説教から
マリアとヨセフは天使がマリアに告げたことばを心の奥深くに納めました。
「生まれる子は神の子と呼ばれる」(ルカ1・35)。
幼子の誕生も、それ自体として、ある意味でこの神秘を秘めています。
両親は、自分たちが幼子をたまものとして与えられたことを
よく知っています。
父親と母親がこういうのを聞いたことがあります。
「この子はたまものです。奇跡です」
地上に生まれたすべての被造物としての人間は、
優れた意味で、天におられる父である造り主を示す「しるし」です。
それゆえ、この世に生まれたすべての幼子が家族によって温かく
迎え入れられることが本当に大切です。
私たちの教会でオルガニストであり教会学校の校長先生である
鍛冶留津さんはこのことを一番よく知っています。
悠子の時代も今の子供たちの時もずっとかわらず子供たちにみことばを
語り続けています。
マリアのように信仰をもった女性たちのおかげで、こどもたちに
イエスが誕生することができるのだと思います。
イエスは馬小屋で生まれ、
最初の揺りかごとして飼い葉桶に寝かされました。
しかし、マリアとヨセフの愛が、優しい気遣いと、愛されることの
すばらしさをイエスに感じさせました。
幼子が必要としているのは、母親と父親の愛です。
この愛が幼子に安心感を与え、成長する中で
生きる意味を見いだすことを可能にします。
聖家族が唯一無二の家族であることは間違いありません。
しかし同時に、聖家族は、すべての家族にとって「生きる模範」です。
なぜなら、まことの人であるイエスは、
人間の家族の一員として生まれることを望まれ、
このことを通じて、人間の家族を祝福し、聖化したからです。
すばらしいこどもたちの生誕劇でした。
クリスマスキャロルもクリスマスリースも色あせて見えました。
この良き日に教会で家族そろって礼拝できることは幸せです。
イザヤ書に
「自分の目で見、自分の耳で聞き、 自分の心で悟り、立ち返って
癒されることがないために、」
これは何を言っているのか私はよく解ります。
逆説的な表現で愛するものへ悟ることを求めているのです。
私たちのことです。
神はひとの自由を尊重しているので人を強制しません。
自分の目で見自分の耳で聞き自分の心で悟るのを待っています。
イエス・キリストを知るように。
これは私の契約の血です。
罪が赦されるように、
「皆、この杯から飮みなさい。これは、罪が赦されるように、
多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」
コイノニア会のクリスマス集会も今日だったが貝塚聖書教会の祝会を
優先した。
母の介護がわたしに選択させたのでそれでいいと思っている。
お正月に悠子が帰ってきたら家族でワインをいただこうと思っている。
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