2012年10月30日火曜日

新しい契約を結ぶ日

■[エレミヤ書] 31章31-34節

31 見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。

32 この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。

33 しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。

34 そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。






旧約聖書にかかれている来たるべき日の出来事が新約聖書にあらわされました。






先日わたしは、京都に行って新約聖書に現わされたイエスキリストの御霊に生きる日本人を訪ねてゆきました。


彼は

聖霊に導かれて聖書を読む
              

キリストのみ霊の愛に生きる

「伝道する」とは キリスト者とは・・・・・・・

生活を御霊の祈りとなすことです。  と語っておられました。





その日マルコ9:14~29を朗読して。
弟子たちの力はからしだねの信仰にも及ばなかった山さえ動かせなかったわたしたちの信仰もその罠があると忠告されていました。

 19 イエスは答えて言われた、「ああ、なんと不信仰な時代であろうか。いつまで、わたしはあなたがたのところにおられようかいつまで、わたしはあなたがたを耐え忍べばよいのか。

29 イエスは彼らに言われた、「このたぐいは、祈りによらなければ、どうしても追い出すことはできないのだ」。



わたしはこの聖句がなにを言っているのか解らなかったのですが、無意識に陥っている信仰者(わたし)の驕りに気づくようにいさめているのだと解りました。

真実を待ちます。聖霊の来る時を待ちます。
聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、 あなたがたは力を受けます。」





ところでベネディクト16世のことばに聖霊を感じるので記載します。

この神のみ顔はきわめて具体的です。それはイエス・キリストだからです。


証人とは、その人が他の人に示す生活をまず自分で生きている人のことです。


人間は神との関係において初めて、人間の自由の意味を理解できるようになります。

教育の使命は、人々に真の自由を教えることです。



人間の自由とは、強制がないことでも、自由意思が支配することでもありません。


それは自己を絶対化することでもありません。


人間は、自分は絶対であり、何ものにもだれにも頼らず、望みどおりのことができると考えるなら、

自分の存在の真理に背き、

自らの自由を失ってしまいます。むしろ、人間は関係的な存在です。


人間は、他者、とくに神との関係のうちに生きています。


神と無関係に真の自由を得ることはできません。



自然道徳法こそが公正で平和な共存の基盤となります。

それゆえ、自由を正しく用いることが、正義と平和の推進の中心です。 そのためには、自分と他者を尊重することが求められます。   この他者には、そのあり方と生き方が自分と大きく異なる人も含まれます。


このような態度が次の要素を生み出します。この要素なしには、平和と正義は無内容のことばにすぎないものとなるのです。


すなわち、相互の信頼、建設的な対話を行う能力、人をゆるす力

(人はたえずゆるされることを望みますが、ゆるすことは困難だからです)、互いの愛、弱者への共感、

進んで犠牲を払うことです。






2012年10月26日金曜日

知性でも祈ろう。霊で賛美を歌うと共に、知性でも歌おう。」



栄子は母と最期まで一緒にいたい。



わたしに介護を託したのは自分一人で母を介護するのは限界に来たと判断したとのこと。




わたしに介護を託したが、母のそばを離れたくないので
今のような生活は不満。いつも母のそばにいて援助をしたいのだ。




いい妹だ。わたしが母の生活の維持に努め、妹は母のそばで母と優しく接する。





かつて母と妹と一緒に暮していた時、わたしは二人の暮らしの不自然さに口を出すと妹は戸を締めてわたしを追い出した。

父親も同じようにして二人は追い出した。そのことはわたしも同意していた。

その後生活の中に引きこもり、電話さえとらなかった。

母が脳内出血をお越し、自分の介護の限界にきてわたしに母の面倒をしてほしいと持ってきた。

それでも妹と和解の道を探らなければならない。

なにが許せないのか、わたしに託したことで二度目の母の脳内出血を妹は責める。

口を開かず食事をしない母に無理やり食事を与えるために殴って顎に黒い痣をつけたことが妹には許せないのだ。

病院に入院させて穏やかに施設で看病することを望んでいる。
妹のいう通りしていれば遠の昔に胃瘻をしているだろう。
今頃は病院を転々としてベツドで寝たきりで褥瘡に心を痛めているのが妹には見通すことができないのだ。

ホライズンの父にも教会にも行けず病院で死んでゆくのだ。
このことが見えない妹はわたしを責める。

自分は14日間も便秘させておいて永山病院へ緊急に行って脳内出血を起こしておいて私によく言えたものだ。

母をまともに布団をひいて眠らせておらず、部屋と言う部屋中をごみでうずめておいて、母の居場所を占領し、食事をつくらずスーパーの惣菜ばかりを与え、風呂にも入れずシャワーで済ませていた妹がよく言えたものだ。

父を追い出すのは理解できる、ほかの女のもとに泊まりにゆく生活はその女のところに追い出すに限る。

然し、父の不潔を嫌がるのは理解できるが、追い出すことより自分が父と母の家を出ようと思わないのだろうか、帰ってきた父をいつまでも毛嫌いするのではなく和解の道を探るのが本来の姿ではないのか。

何時まで経っても父に養ってもらいながら父のいるホライズンを訪ねることをしない妹が母にだけにすり寄ってゆくのは、片手落ちで善意ではなく自分の寂しさの甘えの善意だらしだ。

時にかなってすべてを解決してくれる。

ありがたかな母は既に主に託している。
ありがたかな父も主に託した。
既に二人の命は神がみている。

栄子が両親にかかわることは神にたずねてからにしてもらおう。

わたしにどうのこうのと愚痴を言う前に、教会のみんなと相談したらいい。

十字架のもとで家族と和解をしなければならない。




2012年10月21日日曜日

主の日



あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい。




自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさい。




ただ自分の敵を愛しなさい。



なぜなら、いと高き方は恩知らずの悪人にも、あわれみ深いからです。













栄子が肩が痛いらしい・・・・・・。





憐れみ深い愛に満ちた是澤さんに肩をほぐしてもらっています。
母は眠りこんでいます。








医者を必要とする病人のように、必要を求めてスーパーに来た。









医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、 病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、 罪人を招くために来たのです。






イエスを愛する者へ、御霊が働き、善へ向かわせる。









自分の必要と他者の必要へと、知覚の転化が関心に現れる。駱駝が針の穴をたやすく通り過ぎるのです。









2012年10月19日金曜日

母の歯の治療


 伊藤歯科医院へ訪問診療の依頼の電話をする。

前歯がぐらぐらするので拭いてほしいと希望を伝えると、




高齢で脳梗塞のある人は内科医師の許可のもとに治療するの

で(血圧や出血の危機回避対策上)訪問して即はい拭きましょう

と言うことにはならないとのこと。





なるほど、決定する責任をとらないもたれあいが日本の国の

隅々まで及んでいるとみるべきか、高度な専門性が社会の隅々

まで進んだネットワーク社会が実現しているとみるべきか。






医師が麻酔後手で歯を抜く、麻酔をかけるためにマッサージして

いるうちに自然と抜けたが正確なぐらい簡単に処置する。





2012年10月17日水曜日

あたりまえのありがたさ



昨日、悠子が京都へ帰るので貝塚駅まで送って行く。
その足で貝塚市民病院へ行く。


ホライズンの石田相談員と看護婦さんと父と秘尿器科の待合室でいた。



医師が肛門から指を突っ込み前立腺の腫れ具合を診たあと、癌はないようだという。

わたしは日赤病院の話を持ち出し癌の検査をお願いしたところ血液検査をすることになる。

至急の検査で

F/T比34.2 % トータルPSA15.824 ng/ml フリーPSA 5.407 ng/ml

トータルPSAは4~10以下が正常だから高いがそれでF/T比の値から見て一概に癌とは判定ができない。

肛門から指で触ったところあきらかに癌と解るものはないと思える。

癌だったとしても75歳以上の高齢者は貝塚市民病院では手術はしないとのこと。



血液検査で数値が高い部分があるので腹部前立腺をMRAで調べ細胞の組織を切り取って生検をすればよりはっきりと解るが、

検査は父には楽しいものではなくMRIの時は長時間拘束される。
検査するかしないかは家族さんの決定如何になるとのこと。

いまは症状が何もなく痛みもない。骨に転移していた場合はこんな数値ではないと断言する。



当面は健康で何も生活に問題がないので痛いような病気の症状がでてきたら対処するといい切り

これ以上の検査を断る。 父は腹がすいたといってホライズンヘ帰ってゆく。





今日の父の暮らしは、母と同じ、あることを選択した結果とも言える。





「光あれ」と言った。すると光があった。

2012年10月16日火曜日

留津さんの宅の礼拝








ホライズンヘ行くための準備ができました。
今日は父とは会えないかもしれない。
前立腺の検診で貝塚市民病院へホライズンの人が連れて行きます。




悠子と雅子とで鍛冶留津宅に礼拝に行く。







牧師は罪深いものが神のみ前に立という、神への恐れを、
信仰者として自覚し続けるように勧められた。




そう言えば、イエスに贖われているので神を恐れることがない。




むしろ喜びに満たされて、日々感謝の毎日である。




「今泣いている人々は幸いである、あなたがたは笑うようになる」
  と言うイエスの言葉がわたしには解る。





 そういえば、わたしはイエスは笑っている姿がみえるのに、
聖書にイエスが笑っている場面がでてこない。





でてきても、わたしたち家族のように、よく食べ飲んで陽気に笑っているイエスが自然であるのに・・・大酒のみの食いしん坊と非難されている。




2012年10月14日日曜日

主日礼拝  「わたしたちは彼の受けた傷によって、癒された。」

癒されたと言っても、義とされたものと言われても
暮らしの中で他者とともに生きているのに変わりはない。

私の目には,あなたは高価で尊い。」 

これに尽きる。

わたしも、自分も他者も、このように高価で尊いと
イエス(神)に十字架の上に釘づけされている。








 主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、 よみがえられたからです。(ローマ4章25節)











神はキリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、




公にお示しになりました。





こうして神ご自身が義であり、
またイエスを信じる者を義とお認めになるためです。

2012年10月13日土曜日

嵐山散策



雅子は銀行協会の同期の方たちと秋の京都へ






母親は元気です。体温36.5℃
ガスストーブと電気カーペットを足元にいれている。







ホライズンの五平氏に施設の医師より貝塚市民病院の地域医療へ父親の入院検査を予約してもらえるように伝える。





ホライズンはまだなにも動いておらず、至急に病院へ連絡を取るように
父親の病気を放置はできないことを意識するように注意する。






なんと夜の食卓で確りと目を開ける。








父も手術して除去すれば母と元気に暮せるようになる。