2011年10月30日日曜日

主日礼拝 詩と真実






使徒19-17
みな恐れを感じて、主イエスの御名をあがめるようになった
この恐れは文字どうり恐れを感じてなのだが、恐れの原因がイエスのみ名をとなえ、他の人に命じた時、他の人はそのみ名の実態がおかしいと反論したことによる。

このように他者によつてイエスは崇められるか否かによって判断できる。
恐れとは世論といえるし、また他者を納得させる根拠ともいえる。

私はこのことが自由な人々の間を結びつけるもの真実だと思っている。
あるいは愛と呼ぶものの本質であると思っている。

貝塚聖書教会の池尻牧師は恐怖心が人を真摯にする信仰の原動力でもあると語っていたが、本人はそう信じているが、他者不在のモノノーグが主の教会内で語られているのが、思わずそれは違うと叫びだしそうになった。
主とて十字架に着かれたのは、天高く孤高の人ではなく、頓珍漢な他者との対話のためではなかったのか。




それは言葉ではなく汗を流すこと
愛 それは言葉ではなく捧げあうこと
全ての喜びをともに分け合い悲しみ苦しみを共に歩むこと
愛 それは言葉ではなく永遠に続くもの 愛それは言葉ではなく信じあうこと。

この甘っちょろい詩でさえ自己満足(私一人)では愛は不十分であることを語っている。
捧げる相手がいて、語る相手がいて、共に歩みも信じあえる相手がいて、愛が語り合える。
この詩の甘ったるさは日常で他者と傷つくまで他者と摩擦を起こしていないことによる。

わたしとあなたを結ぶものが愛の実態であるならば、主の十字架のごとく傷つくまでの奉仕者になるのは日常では対話に尽きる。 他者へのお節介に尽きる。


日本の詩人の中にも愛を発見した人がいる。



みんなすきに

わたしはすきになりたいな、
何でもかんでもみんな。

ねぎも、とまとも、おさかなも、
のこらずすきになりたいな。

うちのおかずは、みいんな。
おかあさまがおつくりになったもの。

わたしはすきになりたいな、だれでもかれでもみいんな。
お医者さんでも、からすでも、のこらずすきになりたいな。

世界のものはみィんな、神さまがおつくりになつたもの。



不思議

私は不思議でたまらない。
黒い雲からふる雨が、銀にひかっていることが。

私は不思議でたまらない。
青い桑の葉たべている、蚕が白くなることが。

私は不思議でたまらない。
だれもいじらぬ夕顔が、ひとりでぱらりと開くのが。

私は不思議でたまらない。誰にきいても笑ってて、
あたりまえだ、ということが。



草の名

人の知ってる草の名はわたしはちっとも知らないの。
人の知らない草の名を、わたしはいくつも知ってるの。

それはわたしがつけたのよ、すきな草にはすきな名を。

人の知ってる草の名も、どうせだれかがつけたのよ。

ほんとの名まえを知ってるのは、空のお日さまばかりなの。
だからわたしはよんでるの、わたしばかりでよんでるの。



蓮と鶏

泥のなかから蓮が咲く。それをするのは蓮じゃない。
卵のなかから鶏がでる、それをするのは鶏じゃない。

それに私は気がついた。それもわたしのせいじゃない。

自分とは、他者との関係で自分になることと気づいた詩人の詩だ。
そして、私は他者への責任において唯一なもので、世界に対して自由に言葉を発することができ、それは
ひととひとの関係の真実を生きるためであると語っている。

この詩人は自分を相対化でき、まさに他者を敬っている。
是こそ、私は恐れの本質であると思っている。

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