2014年9月12日金曜日

arkh-人間の被造物の支配と被造物である人間の限界



詩篇第8篇
 
指揮者のために。ギテトの調べに合わせて。ダビデの賛歌
8:1 私たちの主、主よ。あなたの御名は全地にわたり、なんと力強いことでしょう。あなたはご威光を天に置かれました。
8:2 あなたは幼子と乳飲み子たちの口によって、力を打ち建てられました。それは、あなたに敵対する者のため、敵と復讐する者とをしずめるためでした。 
8:3 あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、 
8:4 人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。 
8:5 あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。 
8:6 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました。 
8:7 すべて、羊も牛も、また、野の獣も、 
8:8 空の鳥、海の魚、海路を通うものも。 
8:9 私たちの主、主よ。あなたの御名は全地にわたり、なんと力強いことでしょう。




創世記

8・20 ノアは主のために祭壇を築いた。そしてすべての清い家畜と清い鳥のうちから取り、焼き尽くす献げ物として祭壇の上にささげた。
8・21 主は宥めの香りをかいで、御心に言われた。「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。
8・22 地の続くかぎり、種蒔きも刈り入れも寒さも暑さも、夏も冬も昼も夜も、やむことはない。」

 9・1 神はノアと彼の息子たちを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちよ。
9・2 地のすべての獣と空のすべての鳥は、地を這うすべてのものと海のすべての魚と共に、あなたたちの前に恐れおののき、あなたたちの手にゆだねられる    ...........
    ........。

9・16 雲の中に虹が現れると、わたしはそれを見て、神と地上のすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた永遠の契約に心を留める。」

9・17 神はノアに言われた。
「これが、わたしと地上のすべて肉なるものとの間に立てた契約のしるしである。」







聖書はアダムやノアの子孫である人間になにを語ろうとしているのか 



一つの答えが
中澤啓介宣教牧師 (大野キリスト教会)のネットに掲載されている
ヘブル2章を正しく読み新し福音理解を提唱するより 明らかにされる。




ヘブル人への手紙 2章 6-13 節を理解する。 より抜粋


ヘブル人への手紙 2章 6-13
むしろ、ある個所で、ある人がこうあかししています。
「人間が何者だというので、これをみこころに留められるのでしょう。
人の子が何者だというので、これを顧みられるのでしょう。
あなたは、彼を、御使いよりも、しばらくの間、低いものとし、彼に栄光と誉れの冠を与え、万物をその足の下に従わせられました。」

万物を彼に従わせたとき、神は、彼に従わないものを何一つ残されなかったのです。それなのに、今でもなお、私たちはすべてのものが人間に従わせられているのを見てはいません。

ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。

イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。
神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。

聖とする方も、聖とされる者たちも、すべて元は一つです。それで、主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、こう言われます。
「わたしは御名を、わたしの兄弟たちに告げよう。教会の中で、わたしはあなたを賛美しよう。」

またさらに、「わたしは彼に信頼する。」
またさらに、「見よ、わたしと、神がわたしに賜わった子たちは。」と言われます。
 (ヘブル2:6-13)





著者は まず 、人間とは何者なのか問いかけ 、 詩篇 8篇を引用  します (6節) 。

その詩篇では、 人間が他の 被造物を支配する存在として造られたことが告白されています (7節) 。

ところが著者は、現実に生きてい る人間は今なお万物を支配していないという 事実を指摘 します  (8節) 。


しか し著者はそこにとどまら ないで 、人となられたイエスだけは別だと宣言 します (9節) 。


人間 となられた イエスは 、死と 復活を通して、万物の支配者とな られたと続けます (9節) 。


著者はさらに、 イエスの死はそれだけでなく人間に  「すべての被造物の支配権 」を回復させたと解説します (10 節) 。


そして、 そのことのゆえに キリスト者 がイエスの兄弟になり、神の子になったことを、旧約聖書引用しながら明かにします  (10 -13 節)








さて旧約聖書を引用しながら明かにされたものは何でしょう。

そのことを明らかにします。




どの註解書であっても、 「キリスト が十字架の死を通して被造物の支配者になったこと  」 についてはきちんと読み取っています。
確かに、 被造物に対する  キリスト の主権性は、死と復活によって確立されました。
このことはても重要なことで、すべてのキリスト者と教会が、 受け入れ、告白してきました。

問題は、このヘ ブル人への手紙 2 章を読みながら、 そこに留ま ってしまっていることにあります。

 どうして、 「キリストの死が、救いを受けたキリスト者に被造物の 管理権を回復する 」という  メッセージ にまで至らな かったのでしょうか。






これは 、とてもおかしなことです。もし キリストの主権性だけの話であれば、十字架は 必要 ありません。もともとキリストは、全被造物の創造者であり、支配者であり、相続者でした(ヨハネ 1:1 -3、コロサイ  1:15-17 )。従って、全被造物の主権を確立するのに、受肉、十字架 及び 復活 は必要 のないことでした 。人間の 管理権の回復 のために、 受肉、十字架、復活が 必要だったの です。

それに、 7-8節において 、ヘブル人への手紙著者がわざわざ詩篇 8篇を引用しし ていること いること を忘れないで ください。





詩篇 8篇は、人間が創造時に与えられた「  被造物の支配権」を 謳ったものです。
決して、人となられたキリストを 謳われた ものではありません。




中澤啓介宣教牧師みごとなヘブル書の解き明しでしょう。




さて人間が創造時に与えられた「  被造物の支配権」の回複は、わたしは聖霊により
クリスチャン一人一人の祈りのうちに言葉(神の知恵)を与えられもたらされるものと思うのです。





キリスト者(人間)はお相い被造物として、キリストに贖われた関係/創造された支配管理のあり方、すなわち被造物の自由な関係のあり方を今も神に求められ問われているのです。

一人一人の出来事を自身の今を(聖霊とともに)生きることで人とともに日々行為して言葉で確認し合ってゆく外ない。公的領域の本性によってわれわれに要求されている。





「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」
 ヨハネ3:6




アーレントは
支配すると言うギリシャ語のアルケインについて興味深いことを述べます。





ギリシャ語のアルケインは、始めること、導くこと、支配すること、要するに自由人に顕著な特性を含意しているが、この言葉は、自由であることと新しいことを始める能力とが一致する経験があったことの証しである。
今日のいい方でいえば、自由は自発性において経験されたのである。



arkh-第一番目

ギリシャ語 arkh-arkhē (最初)、arkhein (支配する)、arkhos (支配者) などに共通する 。


 

2014年9月7日日曜日

יד עזרה

יד עזרה
ヤド エズラ  助け手

アダムאָדָם)とはヘブライ語で「土」「人間」の2つの意味を持つ、
エバハヴァחַוָּה)「生きる者」または「生命」の意味である。


写真

主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、
その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこう
して生きる者となった。(創世記2:7)

その後、神である主は仰せられた。
「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、
彼にふさわしい助け手を造ろう。」


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神である主は深い眠りをその人に下されたので、
彼は眠った。そして、彼のあばら骨の一つを取り、
そのところの肉をふさがれた。

神である主は、人から取ったあばら骨をひとりの女に造り上げ、
その女を人のところに連れて来られた。
「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。
これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。」
(創2: 18, 21, 22, 23)



写真



神は人をご自身のかたちとして創造された。
神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。
神は彼らを祝福された。


創世記のもの語りよりどのような思いを持ちましたか。

わたしは人と人との交わりに必要とするものと思います。
人が、助け手がいるということ。

私たちは、この宝(助け手)を、土の器の中に入れているのです。
それは、この測り知れない力が神のものであって、
私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。
(Ⅱコリ4:7)

結婚は、神の祝福です。


神である主は
 助け手について仰せられた。

 しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。    ヨハネ16:7



 
 ネットで右の言葉で検索すると   יד עזרה
ヤド·エズラ財団Shulamit がヒットする。



 

2014年9月4日木曜日

N.T.ライト

ニコラス・トマス・ライト
『ウィキペディア(Wikipedia)』より
        

N・T・ライト
N.T.ライト(N. T. Wright,1948年 - )はイギリス聖書学者である。史的イエス第三の探求(The Third Quest of the Historical Jesus)、及びパウロ神学の再評価(New Perspective on Paul)等の研究で知られている。


昨夜。聖書研究祈祷会のため貝塚聖書教会へゆく。
牧師は福音派の神学校の同窓会に出席したことを報告してくれました。

報告の中で今流行りの神学について仲間たちとの間で話し合いがもたれその内容を奥さんから尋ねられた時、(牧師は説明が下手なのを実感したと表現)いう話に興味を持った。  

新進の神学についてとはどういう神学ですかと尋ねると冒頭のニコラス・トマス・ライトの名を存じですかと尋ねられた。

わたしは知りませんと答えて早速インターネットで調べた。

調べてゆくうちに(現在のインターネット環境はいながらにしてある程度の情報を得ることができる)イエスの時代のヘレニズムのネットワーク環境にも似ているような気がした。
  
「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」
 ヨハネ3:6

N.T.ライトはこの「永遠の命」と訳されているのは、プラトン哲学(ギリシャ思想)が紛れ込んでいると述べるライトによると永遠の命は “but should share in the life of God's new age.”  と理解する。

神の国 in the life of God`s new  age  新しい天と新らしい地の同時実現
主の祈りの天で御心が行われるように地でも行われる現実。
あなたがたのただ中にある神の国 ルカの福音書17章20-21節.

神に賛美をささげる果実、善き行いと人へのもてなしの行為、社会正義の実現、非暴力、人と人の和解のわざを、この世界で創造してゆくという政治の行いのことなのでしょう。



ハンナ・アーレント(過去と未来の間より)
しかし世界の永続性と信頼性が失なわれたー
政治的に見ればこのことは
権威の喪失に等しいーからといって、 
第二神殿ユダヤ教の権威が失墜したからと言って≫ 
世界、つまりわれわれの死後も存続し、
そして後からやってくる人びとが
住まうのに適した場所でありつづける世界を、建設し。
保持し。気遣う
≪ナザレのイエスの始めた神の国活動≫
人間の能力≪(御霊)による活動≫までもが、 少なくとも必ずしも
≪滅びる≫失われるわけではない。

とアーレントなら神の国を語るだろう。
 
注≪≫内はブログ筆者の加筆です。





 


2014年9月2日火曜日

パエリア



昨日、いとうまもる医師の訪問診察を受ける。
母の状態。
VS BP100/60 P90 Spo2=96% KT37.0℃ 下口唇部分に小さな創あるも、化膿創ではない。様子観察。胸部聴診問題なし、誤嚥の兆候もなし。処方は35日分とします。いとうまもる診療所訪問診療部



唇の横にできものができる。化のうはしていないので放置、ゲンタシンを時々ぬる。


といろの訪問介護を毎日利用する。朝と晩介護に来てくれる。


家族だけのターミナルな母との介護生活は心細い、(医師・看護や介護の)定期訪問を受けるのは心強い。


今日はパエリアを昼飯にいただく、蓮沼水産の冷凍食品をご飯に入れて炊くだけ、ムール貝と、海老とパプリカを追加して入れる。





パエリアの本場はバレンシア地方ここは米がとれる。
日本米に似ているそうで魚介類と一緒にフライパンで炊き込む。


世界の米料理をみるとレシピは多い、チヤーハン、ヒビンバ、フオー、ピラフ、ドリア、カレーライス、お餅、粽 ・・・等々。




バレンシア地方へ米が伝わったのはアラブ人による。
パエリアは西暦9世紀以後、アル=アンダルスムスリムの間で作られてきた。ウィキベディアより



バレンシア地方の古代の歴史をふりかえると興味津津、その地にすむ人々の名をあげるとイベリア人(フェニキア人、古代ギリシャ人、カルタゴ人と海上貿易を通じて交流する)ローマ人(紀元前202年の第二次ポエニ戦争によるローマ勝利後、バレンシア沿岸部全体がローマに服従した。7世紀ものローマ支配の間、イベリア人は政治的・経済的・社会的組織に徐々に吸収されていき、言語もラテン語を取り込んでいった。)


西ゴート王国(にしゴートおうこく、ラテン語:Regnum Visigothorum、415年 - 711年)は、現在のフランス南部からイベリア半島にあたる地域を支配したゲルマン系王国。はじめはキリスト教アリウス派、のちにカトリックを国教とし、ゲルマン文化・ローマ文化・キリスト教文化を融合させ栄えた。









バレンシアのイスラム支配期は、8世紀から13世紀まで続いた。イスラム教徒らが灌漑システムを拡張し始めてから、大都市としてバレンシアが脚光を浴びるようになった。



バレンシア地方の言語をみると古代はイベリア人のことばでコミニケーションされていたのがローマに征服されるとラテン語、ゲルマン人に征服されるとロマンス語、イスラム教徒に征服されるとアラブ語によるそれぞれ主役交代によって人々の間で汎用するコミニケーション言語が公的な場所で異なっている。

 



おいしい米を食することは変わらないが、日本では古代からコミニケーション言語として日本語が公私ともに共通言語であったことに、今更ながらパエリアを食べながら僥倖をしみじみ味わった。




 

2014年8月30日土曜日

夏のおわり


社友会の集まりがJCBの大阪支社でも開催され、久しぶりに親しい顔をみようとでかける。天満橋で降り現役のころの通勤道を歩く、北大江公園の前まできて大野屋を過ぎ竹山商店の酒屋を通りマリアンを覗きバオリン屋を越えて絨毯ギヤラリー(今は無)ところまできて街路樹の木のこぶをみると、ここに暮していたころの記憶が蘇る




悠子と雅子とまりと北大江公園や中大江公園をよく散歩した。
竹山商店で酒を筒マンションへ配達してもらう。
マリアンでできたてのパンをよく買って食べた。 パンを買って帰ろう。
なかま達との再会は教会にいる様た゛。




今は悠子もまりもいない。




教会から悠子に葉書が届く。若いころからの望み、信頼の的、神さまが
祝福と喜びを満してくださいますように。






 神なる主よ。あなたは、私の若いころからの私の望み、私の信頼の的です。
詩編 71:5


 

2014年8月16日土曜日

福音交友会 聖書キャンプ のおみやげ



貝塚聖書教会の皆も、牧師ご家族も聖書キャンプに出かけてゆきました。

てづくりの麩おいしんぼうでつくったたまごとじ


奥さんからご一緒に参加しませんかと薦められましたが、
母親の介護のため今のところ出かけられませんと答える。

松田のおじさんは89才で今回参加者では最年長でしたが、100才を超えて参加されていた方のおられたのを聴いた留津さんは、耕一さんの聖書キャンプに目標(希望)がでてきたようです。





犬甘野のお米でたいた御飯。留津さんからのお土産。


留津さんから牧師の留守中に教会の扉の鍵の開け閉めをお願いされる。
ダニエルの散歩の往き帰りにすることを引き受ける。


するとなんとまあ沢山お土産を頂く。





聖らかなキャンプをみんなで過ごしている様子は岸和田北聖書教会のブログで日々手に取るようにわかった。



漬物は京つけものもり 刻みうりと里ごぼうも


羨ましく思っていると、有り難いことにお土産でおいしい昼ごはんをいただく。



14教会から、約150名の兄姉が合い集い、2014.FKK聖書キャンプ「神の国の宣教の原点」という垂れ幕が写っていました。

翌日の細川勝利(那珂湊キリスト教会牧師)講和 「神の国の宣教は、聖霊によります」。アーメン


亀岡の標高400mの澄んだ空気ときれいな水の恵みを含んだ
昼夜寒暖の差の激しい
おいしいおコメ




京都太秦の京漬物 老舗もり。  


兵庫県宍粟市の長田産業の手造り麩、留守をする者に過分な恵みの幸せをいただきました。

たまごにかけるお醤油はひろしまの寺岡家がお気に入りです。

おいしい伝統の食の文化のある日本に生まれて幸せです。






2014年8月10日日曜日

蝉の賛美

蝉が一声になきだしました。

台風11号が通過中、蝉たちはなき声ひとつ立てませんでした。



 

風が止み、蝉がなきだしました。




















集団的自衛権も考えてみれば日本の国に住む一人一人の安全保障についてどう判断するかによる。

自分の生存権を国や集団に依存する前に自分と隣人の命をどう愛して過ごしてゆきたいのか、個人がどのように自分の命を生きたいのか、国家以前に人々が至極普通に生活してゆく問題である。

帰属する社会や国でどのように生きたいのか考えることが先にある。今回唐突にでてきた集団的自衛権問題はひとりひとりの生活の安全確保の問題についてそれぞれの安全保障についての考えを端から軽んじている。






台風一過まだ風が吹いていたがやや下火になり、雨がやむや否や、
蝉が一斉に命の声をあげるその声に心うたれる。






蝉と強大な力を持つ台風を考えてみれば、暴風雨に声をひそめて耐え忍んでいた蝉たちが一斉に声を上げている。人々の声はこのようなものだろう。
それぞれの思いの現われであると私は思っている。蝉たちの鳴き声の現れと同じ思いの現れである。





いっぴきいっぴきのいきるおもいが声になっている。

一人ひとりの思いが言葉となって他の人と連帯していることは
集団を現わしているが蝉の鳴き声のようだ、自然な自由な現れです。

驚きなのは台風の危険をちゃんと生まれたばかりの蝉たちが知っていることです。




オランダの Arnon Grunberg 氏も米紙ニューヨーク・タイムズに「集団的悲しみの問題」という題名の英語のコラムを寄稿、危険性を私たちに知らせる。






わたしたちはどこのくに帰属するまえひとりの人であり、わたしたちの意見は 『尊重』 される。











国家やそこに暮らす民族やその国に所属する人々にとって、






自分たちに属す人々の不幸な出来事や悲惨な死は、




犠牲者の国籍を問わす悲劇的なものだ。






悲劇が民族主義を刺激する道具として使われてはならない。









「どの国、どの社会も構成員に哀悼の意を強制してはならないということだ。哀悼は非常に個人的なものだ。」






個人的なものであるゆえに危機に一人一人の意見が 『尊重』 され
が生まれてくる。






主は倒れようとする人をひとりひとり支え、





うずくまっている人を起こしてくださいます(詩編 145:14)