2018年1月15日月曜日

小正月にぜんざいを戴く



久しぶりに朝から晴天。



小正月は鏡開き、ぜんざいを食べる習慣がある。


大山の森で関西の暮らしぶりが食に現れる、たこ焼も同じついほしくなる。
関西が恋しく泉佐野の友人にラインを入れた。


雅子と風呂から帰って来る。 道は真っ白、雪が激しく降っています。
暗い森の中でヘッドライトに照らされて道が浮かび上がり白い雪がwindowに打ち付ける。
凍てついた階段を上がり凍り付いた池を過ぎれば、暖かい室内。
かまくらの様です。まさに命のカプセル。 白一色の中で晩酌をいただく。幸せはこんなところにもある。




さみしい森の中で人は他人と繋がっていたい。




彼からの回答は


すごいねまるで仙人の生活 でも伴侶が一緒が羨ましい


そうです伴侶こそ、寂しい森の中では唯一の他者・善き隣人。







成人式はわたしたちの頃は一月15日、小正月の頃だった。


それぞれの人生を歩み出した他者と出会う期待と不安があった。




最近は他者と出会う時に不安がない。
むしろ期待する。


ケセラセラとは信仰者の生活とメールをくれた友人がいた。


ケセラセラは、主にある者は、皆、祈り、お願い事があれば、お願いします、あとの結果は、主様のものですから、私は、これを、ケセラセラ(なるようになるさ)と言います。




成るようになるさは逆から言えば成るようにしかならない。
なったことを良しとする。生き方。
積極的になるように努力しようとはするが人の力の及ばないところもあると弁える生き方。
ケセラセラ。には人を成らせる主のために人が努力する領分を認めるのか否か、人の振る舞うことの必要を感じているのか、その必要もないとしているのかでは、ケセラセラを口ずさむものの言葉は違って聞こえる。




人は自由があるから、その人なりの生き方ができる。


なにも決まりごとがないが、人が人と関わり交わりを持つとき人の自由さはケセラセラではいかない。


アーレントなら
問われているのは存続、存在の持続(in suo esse perseverare)である。しかし、死を免れえない人間の短い寿命が尽きた後も残存する定めにある人間世界といえども、ヘロドトスが最初に意識的に企てようとしたこと、つまり「存在するものを語ること(レゲイン・タ・エオンタ)」を進んで行う人々がいなければ、およそ存続できないであろう。存在するものおよび存在するがゆえに人間に対して現象するものを、進んで証言する人々【真理を語る者】がいなければ、永続性や存在の持続は考えることさえできないと語るだろう。





事実と出来事 ----- 共に生き共に行為する人々の変わることなき帰結は----- 人間の精神によって生み出される公理、発見、論理、さらにきわめていいかげんな思弁的論理よりも、はるかにはかない。それらは絶えず変化する人間の事柄の領域のなかで生じる。

そしてこの人間の事柄の流れのうちには、人間の精神の構造という明らかに相対的な永続性以外のいかなる永続性も存在しない。

事実や出来事はいったん失われるならば、理性がいかに努力しても永遠にそれらを取り戻せないであろう。




ゴルゴタの丘での出来事、十字架刑の事実を語ること(レゲイン・タ・エオンタ)」を進んで行う人々がいなければ、およそ現在まで存続できなかったであろう。




事実と出来事 ----- 共に生き共に行為する人々の変わることなき帰結は----- 人間の事柄の領域のなかで生じる。



ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれてくる。人類の救済も人間の事柄の領域のなかで生じる。平等な者の間でのみ自由が可能となる。



神であれ、死であれ、自然であれ、人間を平等化するものが、人間の交わりが生じる領域を超越し、とどまっていてはイエスの真理と反する。

そのような「真理」は人と人の間に存在するのではなく、人々の上に存在する。

 イエスは言います。
真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。




イエスの真理は人々のなかにあります。イエスの十字架を
あなたやわたしがキリストがどのように見えるかというそれぞれの意見の中に
大勢の人々の見方と関わる時にはじめて見えて来るのです。






イエスは言います。
真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。


わたしたち一人ひとりがイエスにまねび (imitatio Christi) びとである。



私市さんよりメールが届く。
主様のなさる出来事の不思議を



改めて体験させられています。

私市元宏
 



おいしいぜんざいを夫婦でいただけることを感謝します。



 

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