2014年7月29日火曜日
2014年7月27日日曜日
人の悔い改め
昨夜。京都のコイノニア会から帰って母の介護をする。
トイレと食事をすませて、寝むる前のひと時母は車いすに座っている。
悔い改めについて、ガリラヤの人たちの捧げものにガリラヤ人の血がピラトによって混ぜられていた出来ごととシロアムの塔が倒れて災いを被った人たちについて、イエスは全てのユダヤの人たちより罪深かったからそんな災いを受けたのだと思い違いしてはならない、あなたたちも悔い改めなければ同じように滅んでしまうと警告します … 。
事実ユダヤの神殿はイエスの死後40年ほどしてローマによって破壊しつくされて滅んでしまいユダヤの国家は消滅します。
悔い改め。
奇蹟 「およそありそうもない出来事」
宇宙の出来事からみると、地球のうえに人類が誕生し全滅せず生き残ることができたのは恩寵まさに奇蹟としか言うほかない。創造者に愛がなかったならすでに滅んでしまっていただろう。しかし神の愛が人を滅びから救ってる。
イエスの話す悔い改めとはまさにこのこと、地上で(奇蹟と思える)救済の業も、ご自身に父の愛と知恵のすべての恵みが顕わされているのであなたの眼差しをわたしに向けなさい。
ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見たものは、父を見たのです。
主の日、教会より帰ると、母に食事を。
貝塚聖書教会でも奇しくも悔い改めについて説教がありました。
教会の人々の賛美の歌声は美しく感動的で、とくに電子パイプオルガンの音色は澄んでいて聖霊にあふれていました。
人の悔い改めは地上で(奇蹟)救済の業を見ることです。
イエスの愛の業を見ることにあります。見たものは、我に帰って気付くのです。
悔い改めに先だって赦しがあった。 と父を見たのです。
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2014年7月14日月曜日
そしてみんな眠ってしまう
蟻のところへ行き、そのやり方を見て、知恵を得よ。蟻には首領もつかさも支配者もいないが、夏のうちに食物を確保し、刈り入れ時に食糧を集める。なまけ者よ。いつまで寝ているのか。 いつ目をさまして起きるのか。
シモン。眠っているのか。一時でも目をさましていることができなかったのか。 誘惑に陥らないように、目をさまして、祈り続けなさい。
主の安息は眠って過ごすこととは少し異なるようで。
七日目に休まれた主の安息は人が極楽浄土する安息ではなさそうです。
みんな気持ちよくねむってしまう私たち家族の安息とも異なり
不確かな地上で
人が人を気遣い未来に希望を托し約束し、交わした約束を信じて 平和に暮らすうちにありそうです。
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。
われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。
われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立うとする各国の責務であると信ずる。
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。
日本国民の誓ふを、イエスなら、「なにごとでも、人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにしなさい」 と一言で表現されるだろう。
彼は、「安息日は、人のために定められた。 人が安息日のためにあるのではない。 だから、人の子は安息日の主でもある。」 とも語っています。
十字架につけられ死んで葬れ三日目めに復活した彼を救い主(キリスト)と口で告白して語る人々たちは、それまでのユダヤ教の休日である「安息日」(土曜日)に代へ、「週の初めの日」を、「主の日」と宣言して復活の主イエスを崇め賛美し始めました。
安息日の主すなわち復活の主の出来事を思うと、わたしは安息日である日曜日の恩恵をしみじみ味わうとともに、安息は救い主(キリスト)を口で告白して語る人々たちの不確実な地上でキリストに望を托し彼の約束(聖霊)に身を委ねて公に(公同の集会に)活動する人々の言葉と行い(政治/祈り)が現在にまで届けられた果実(創造者の御心の顕現)と思えるのです。
それは今も続いている。現在のシモンへ。イエスは呼びかける。
シモン眠っているのか。一時でも目をさましていることができなかったのか。 誘惑に陥らないように、目をさまして、祈り続けなさい。
2014年7月12日土曜日
2014年7月10日木曜日
2014年7月8日火曜日
肩鎖関節脱臼
肩鎖関節は鎖骨と肩甲骨の間の関節です。 この関節の安定性は肩鎖靱帯(肩峰と鎖骨の間)、烏口鎖骨靱帯(烏口突起と鎖骨の間)、三角筋・僧帽筋( 鎖骨の外側につく筋肉)により保たれています。
自転車でダニエルと散歩中、こけて頭と肩を強打する。
幸いCTで脳の状態を検査するも異常がなかったが、
肩鎖関節が強打のため脱臼する。
二週間ほど三角巾で安静にして
痛みが薄らいできたのでリハビリに入る。
三角巾をとって肩を動かすや否や、激痛が走る肩を動かすたびに筋肉が痙攣をする。
肩鎖関節脱臼をやっと理解する。転倒の際の異常な力によって肩の腱が断裂かまたは異常な延びによって肩鎖関節が脱臼した。この治癒には断裂の腱の(不治の病の)代わりに、脱臼の損傷が引き起こした不均整を均整に整復するために肩に残っている筋肉自らが治癒に向けて四方から引っ張ってくる。筋肉の収縮のバランスをとる痛みに耐えることから始まる。
肩が自由に動くのは固定されていないから、四方八方上下左右自由に動くのはそれに見合う力、筋力が支えている。怪我をして始めてこの不思議な力に驚嘆と賛美をする。
人の自由も、創造による御力、誕生し肉体をもって活動する行為と言葉が、一人一人に働いて集まり不思議な力で保たれているように思える。
おびただしい数の、甚だしく枯れた骨が、カタカタと音を立てて、集まり、そこに筋と肉が生じて、皮膚が覆い、主の霊が注がれた ...
人が自由なのは固定されていないから、四方八方よりそれに見合う力が支えている。
アーメン。
2014年7月2日水曜日
ワインと介護の日々
訪問入浴をエルケア岸和田入浴センターに依頼する。
栄子と浩治が訪ねてくるが、
母の介護の援助をする気がない。
二人ともまさか自分たちの母はいつまでも会いに来れば会える/生きているとは勘違いしていないと思うが、二人の態度から母は介護力によって生き永らえているという認識がないのが解る。
母をひとつも介護しょうとしない。全てお任せ。
わたしがもう食事の介護を断念しなければならない時を迎えているのに、わたしのしていることを『ようできるなぁ』という言葉に、母の看取りについて実際母を介護する者との意識のずれを感じる。
母が今もいるのは少なくとも食事を得ているから。
その食事に対して本人もまた二人の弟と妹も、関心のないのが
わたしの、何とも言えない
やるせない感情。
雅子は少し距離を置いて介護を助けてくれます。
わたしたちにとって、
一番の幸せは
ワインと食事。
ワインとともに食事をいただける日々に感謝しています。
ボルドーワインを切らすことなく日々の食事に与えられることを、
祈ってほしいと直樹さんにいうと、彼は本当は祈りたくなかっただろうに
(キリストの信仰からそれを祈ることは彼の心に抵抗するのを容易に想像できた。)わたしの願いがかなうことを祈ってくれました。
今から思うと有り難いことです。
人を赦すということは、(多くの場合ひとはだれも自分と見解を同じくしない)
直樹さんのような祈りのできる人の行為と言葉にあるのだろう。
祈ってくださっている人々の祈りに助けられ励まされて、
兄弟とも父とも、争いにある他者と和解をしなくてはならない。