2014年7月14日月曜日

そしてみんな眠ってしまう




蟻のところへ行き、そのやり方を見て、知恵を得よ。蟻には首領もつかさも支配者もいないが、夏のうちに食物を確保し、刈り入れ時に食糧を集める。なまけ者よ。いつまで寝ているのか。  いつ目をさまして起きるのか。







シモン。眠っているのか。一時でも目をさましていることができなかったのか。  誘惑に陥らないように、目をさまして、祈り続けなさい。






主の安息は眠って過ごすこととは少し異なるようで。
七日目に休まれた主の安息は人が極楽浄土する安息ではなさそうです。







みんな気持ちよくねむってしまう私たち家族の安息とも異なり
不確かな地上で
人が人を気遣い未来に希望を托し約束し、交わした約束を信じて 平和に暮らすうちにありそうです。






日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。

われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。

われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。


 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立うとする各国の責務であると信ずる。

 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。


日本国民の誓ふをイエスなら、「なにごとでも、人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにしなさい」 と一言で表現されるだろう。


彼は、「安息日は、人のために定められた。 人が安息日のためにあるのではない。 だから、人の子は安息日の主でもある。」 とも語っています。


十字架につけられ死んで葬れ三日目めに復活した彼を救い主(キリスト)と口で告白して語る人々たちは、それまでのユダヤ教の休日である「安息日」(土曜日)に代へ、「週の初めの日」を、「主の日」と宣言して復活の主エスを崇め賛美し始めました。



安息日の主を崇め賛美する働はエルサレムから始まりローマに到りローマ帝国を大きく揺さぶりナザレのイエスを救い主(キリスト)と口で告白して語る人々たちの活動が公認されると、「主の日」すなわち日曜日を安息日と制度化され、やがてローマ帝国内の人々の休日として、ついに現在のわしたちに到りました。

安息日の主すなわち復活の主の出来事を思うと、わたしは安息日である日曜日の恩恵をしみじみ味わうとともに、安息は救い主(キリスト)を口で告白して語る人々たちの不確実な地上でキリストに望を托し彼の約束(聖霊)に身を委ねて公に(公同の集会に)活動する人々の言葉と行い(政治/祈り)が現在にまで届けられた実(創造者の御心の顕現)と思えるのです。

それは今も続いている。現在のシモンへ。イエスは呼びかける。
シモン眠っているのか。一時でも目をさましていることができなかったのか。  誘惑に陥らないように、目をさまして、祈り続けなさい。




       
 

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