2014年5月22日木曜日

LICはびきのパイプオルガンの非日常

「来りませ聖霊、主なる神」 BWV651は、バッハのライプツィヒ・コラール集の第一曲目として知られおり、聖霊降臨祭で歌われるコラールに基づいています。コラールの歌詞は「来ませ聖霊、主なる神、なんじの豊かなみめぐみで満たしたまえ。信仰深き者の心と勇気と精神を、なんじの燃える愛を彼らにも燃やしめよ。おお主よ、なんじのまばゆい光により信仰へと集めたもう、すべての国民を。讃えられるべきはなんじ主なり。アレルヤ アレルヤ」 




パイプオルガンの調べに酔って家路につく。




我が家にたどり着くま近になり前から来たオートバイとあわや接触するかと思う出来ごとに遭遇する。




この出来ごとはわたしには連続する介護の連鎖の日常を打ち破る奇跡がわたしに及んだように思える。






「およそありそうでないこと」としてわたしの日常に割って入ってくる。
奇跡とはこういうものだ。

写真はCHAMPAGNE  Christian BOURMAULT





いましがた聴いてきたLICはびきのパイプオルガンの響きに現れた神秘な聖霊と同じほどにわたしに起こった出来事に神のみ力(奇跡)を感じるのです。

人はこのようにして日常で起こる出来事━互いに世界を共有している出来事によって自らのリアリティをすなわち人間としての真実を無言のうちに悟る/理解してゆくのでしょう。














2014年5月8日木曜日

ウィークディチャペルの午後の訪問者


貝塚聖書教会では毎週木曜日にチャペルで集会が開催されている。
その日の午後、牧師と留津さんが母を尋ねてくれました。


いつも留津さんが讃美歌を歌って聖書からみ言葉を読んで、お祈りしてくれますが、


今日は讃美歌を歌った後、山里牧師が母のためにキリストを信じる者の自由についてみことばをとりついでくれました。



まさに不自由な者に自由を/解放する方(メシア)を宣べ伝えます。



脳障害で認知症の母に自由、永遠の命を宣教する行為は常識な者たちからは滑稽で徒労とも思えるだけに余計に母を介護するものには感動があふれてくる。





神を信じるものには自由がある、そこには神の愛が伴っている。





母はいつの間にか目を覚まして、
一足先に御国を観ているようにも思える。







 

2014年5月6日火曜日

ゴールデンウイークの母









雅子脱臼により、訪問介護に朝晩の介護を援助される。




優しく母の手をとり言葉をくれる。


言葉をかけてもらえる嬉しさは。いきる喜びにあふれる。






2014年5月2日金曜日

訪問介護者の援助は主の支え


母を訪問介護者に援助されてトイレと風呂に入れる。
介護の方は最近父を肺炎で亡くされた、私の母への食事の介護を見て(人権無視の介護で主治医と政府の人権の方から食事介護を非難されているが、誤嚥なく口から食事を嚥下している限り与えることは人権に沿わなくてもそれでいいと私は思っている)と日ごろの世間とのずれのやるせなさを述べる。


介護者のお父さんの場合。肺炎は口から食事が摂れないので胃瘻をしなければ栄養補給はできない、胃瘻拒否は死を受け入れることになったが家族でそれを選択したとの事であった。辛さはしみじみ私に伝わってくる。



私の母も母の意思に反して無理やりスプーンで口をこじ開けてラコールと牛乳を流し込む。その後は母自身の力で飲み込むことが出来るので今は有り難きかなそれを行っている。母は脳内出血で認知症状態となっている。正常に認識出来ないのが認知症、認知症は言葉の欺瞞である、世間によく聞こえる言い換え。すなわち自分で正しく物事を判断できないのが認知症の病名。よって私が母に代わって判断している。

自分の意思でイエスを主と仰ぐキリスト教の信仰告白は私には欺瞞に思える、人は聖霊によらなければ誰もキリストと出会えないとするなら神様の方ですでに人々に関わってくださっている。神の愛はあまねく人々に等しく無条件であたえれらていると私は思っている。
キリスト教入信の信仰告白の教会の資格(制限は)人の側の驕りである、自由意志で入信する事の尊重は理解できるがそこに人の思いや意思に関わらない、神の愛が人々の意思より前になされてるのだと私は強く思っている。




私の介護を神に託しなさいと京都のコイノニアの私市氏のアドバイス、母に無理やりしている口からスプーンで流し込む介護はいつ廃止すればいいのか、すなわち死を当然に迎えることを私は受け入れる頃合いを自身の意思決定に任されていいのか否か悩んでいると述べたときのことである。

『あなたがなにもしなくてもその時になると主がしてくれます。』

私たちの教会の私の愛する姉妹がメールを寄せてくれました。

「人それぞれ違いますが、私の乏しい経験では、24時間365日、介護には言葉で表現し尽くせない重圧と緊張と疲れ、命との向き合い、死の彼方にある希望がありました。あれはやった人でなければ実体験としてはわかりにくいかもしれませんね。きれいごとでは済みません。」

私は私と同じ経験を同じくした人々の言葉の中に慰めを得ます。人は人の中に真実を見出してゆくのでしょう。お互い不完全な人を愛しておられる神によって一人ひとりの命の(人生の)真実が支えられている。経験は同じくできなくても他者を思うこと/寄り添うことで、関心を持つことで(すなわちそれが愛すること)で私は可能であると思ってる。

神が母をとられる日まで訪問介護者の援助に支えられて母を介護して行こう。


2014年5月1日木曜日

祈り会の翌日魚屋さんがくる



水曜日の夜は貝塚聖書教会でみことばの学びと祈り会がある。



エレミヤ36章『書き記された神のことば』を学ぶ。


そのあとみんなで祈りとなる。


昨夜はそうは成らなかった。聖書が滅び失せなかったのは、
そこに御霊が人々に働いて神が残されたことを強く意識した夜だった。





イエスが神だと理解するように人々に創造者の霊が宿る。



人の単なる希望や願い事や思いでではなく不思議な力が働いて人々にイエスが神だと認識させるようにみことばである聖書も守られたように、人々の霊性も神は守られている。


古代のイスラエルの人々を奴隷の身分から救いだしたみ言葉の成就である。
民を乳と蜜のあふれる約束の地へ導く神の御心の成就は今を生きる私たち一人ひとりの人格に宿る霊性によって実現されてゆく。
このことは永遠の命として神によって守られている、神があたえてくれた人の命/天にでも地でも繋がれる権利として成就するのです。どんなに人々に語りつくしても語りつくせないわが身を持ってする宣教命令であると私は信じている。

み霊はまず最初、個人に宿りそれを他者へ伝えて行くのです。
神の自由な御霊は人々の間でコミュケーションをなりたたせてくれるゆえ


天賦の励まし/助けてとなり新しい事を始める勇気を与えて永遠の命を人々と分け合うように活動(行為/言葉)を生むのです。