2010年9月23日木曜日
季節の変わりめ
今日から突然スパーリングワインは季節外れと感じるほどに寒くなる。
自転車でダニエルと永楽ダムまで散歩 。
雨の降る雷のとどろく中で、雷に当たって死んでしまったらと思うと、ばかみたいな散歩になってしまう。
しかも散歩しないわけにはいけない訳が、またばかげている。
昨日性懲りもなく台所を閉めないで外出したために。ダニエルがしこたまドックフードを食べておなかをパンパンにしているため。
散歩が命がけになるとは、御笑いだ。しかもばかばかしい原因からやってくる。
昨日雅子が銀行協会の同窓会に出席する。
みんな元気で若い、肌のつやが退職した当時のままで年をとった感じがしないらしい。
自分が平行移動していることを忘れているのではないのかと思ってしまう。
散歩へ行く前の夏の季節が、突然秋の気温に替わってくるのが感じる。
こんなものだろう、変わり目は、
ばかばかしいことをやっているうちに、普段を脅かすようにやってくる。
日本と中国の尖閣諸島をめぐることも、今日のダニエルとの散歩のようだ。
突然脅かすようにやって来た。
中国に限らず日々の暮らしで他者を知ることが肝心。
突然の驚愕を避けるために対話が必要だが、
他者の本質は多様性にあるのでばかばかしいと思える他者でも対話をしなければならない。
2010年9月19日日曜日
主日礼拝
ダニエルとの散歩道、稲が実っています。もうじき刈り入れの季節、だんじりの予行の太鼓の音が聞こえます。
実りは自然と実が熟してくる、そこに不思議がある。
救いと実りは他力。
イエスの救いも、実りのように、
自力とは無関係。
あまりにも簡単すぎて自力にたよる人は、プライドが傷つけられる。
ヨルダン川に身を沈める将軍のような心境になる。
今日は歓迎礼拝、歓迎する人は宮崎に貝塚から嫁いで里帰りしているご婦人一人。
しかもすでにクリスチャン。
一般に教会の都合で歓迎と称するだけでみずしらないひとが礼拝に突然、訪ねてくることがない。
しかもすでにクリスチャン。
一般に教会の都合で歓迎と称するだけでみずしらないひとが礼拝に突然、訪ねてくることがない。
仲間内を相手に、本日の説教にイエスが救い主であり、今日実現しましたとナザレの田舎集会堂でイザヤの個所をイエスが説教した場面は圧巻であるが、
内容がイエスが語ることと変容されている。
救いは仲間内の自信喪失者に対して、救済をさしのべる程度の(自己救済の御守り札)と何ら変わりがない説教にはもううんざりする。
人は、自分に関することのすべては究極は死において終わる。
死を通り越えてゆくものこそ 、
永遠のキリストの命。
信仰の本質なのだが貝塚聖書教会の池尻牧師には、具体的な考えが及ばない。
牧師が十年一日の如く今日も、自己に関することについて信仰を問う姿は、古代ユダヤ人の文字に拘束される者の如く、終局を迎えて死を乗り越えてゆかない。
その中で、松田さんの高齢者祝福時の証は、戦争で死ぬことをまぬがれ、それとて
死んだ者の生にも及ばない人生に後ろめたさを感じながらも、イエスに頼み生かされている日々を感謝する信仰者の姿にどれほど感銘することか。
信仰心や祈りの力の程度など本人に関する限り、本人が努力云々に関わりなく、本人の問題は全て本人の死に直面して終局する。
牧師の求める信仰者の誠実性や地味な努力や精進する祈りは、外見上はもっともなものであるようにみえるが、全て死に際して無力だ。
それらは全て自力であり他力ではない。
2010年9月18日土曜日
久しぶりの雨山城蹟永楽ダム縦走
2010年9月16日木曜日
2010年9月15日水曜日
さんまの美味しい季節
2010年9月14日火曜日
美味しいワインがすべてなくなってしまった
2010年9月12日日曜日
雅子京都より帰ってくる
玄関にやってくる人にほえるダニエル、ただいまと言う雅子にもワンと吠えていた。
おみやげに買ってきてくれたコルティセーター早速きました。
悠子と会って二条城まえの全日空ホテルで鉄板焼きとバーで楽しく過ごしたとのこと。
悠子がハンドバックがほしいということで、今日伊勢丹で買ってあげたらしい。
悠子が気にいったものだったらしく半額だしたとのこと。
もう一人前になった感じがしたらしい。
POMMARD 2004 ミッシェル カイヨ ポマール 2004
フランスブルゴーニュ地域圏
ポマール(Pommard)村はコート=ドール県のコミューン。
コート・ド・ボーヌ地区にある。
ポマールで生産されるワインは全て赤。
ブルゴーニュの赤ワインの中では一番力強いワインになる。
主の日礼拝
パウロは生きていたイエスとは面識がない、ダマスコで同朋イスラエル人を引っ張ってきて死に至らしめることをする自分のしていることの正統性に疑問をいだきだしたのであろう。いままで間違いないと信じていた義に混乱が生じる反対にイエス並びにイエスに従っている弟子たちの行為を理解しはじめる。
これがパウロのイエスの復活である。
月足らずに生まれた者にもイエスは現れてくださいました。パウロの語るこのような心境は現在のわたしたちに至るまで自然に理解できる心境だ。
わたしはこれこそが復活だと思う。復活とは現実に社会的なことがらだ。(牧師は歴史的と表現していたが、説教から復活がなぜ歴史的なのか理解していないのが分かる。対比として五穀豊穣の神をもちだしていたが。)
承認なくして、イエスの復活はありえない。
イエスは十字架で死に至り、三日目に人々の前に復活する。
これはイエスこそイスラエルの神と承認する人々がいたという事実である。
イエスを承認する人々がいないと、復活はなりたたない。
・・・・・このことが歴史的の意味です。(そこに人が暮らし判断して生きている。)
「だから人の子はあなたにいっておく、わたしはあなたたちひとりひとりの自由な判断によりとこしえにあなたとともにいる。」
このようなイエスの声が聞こえてくる。
CONNETABLE TALBOT SAINT-JULIEN 2007
北海道産男爵いもカレーコロッケ加ト吉
いつもなら、よだれをたらしてテーブルの下にいるダニエルがこない。
教会へ行っている間に閉め忘れた台所に入りドッグフーズをしこたま食べていた。