2010年9月19日日曜日

主日礼拝



ダニエルとの散歩道、稲が実っています。もうじき刈り入れの季節、だんじりの予行の太鼓の音が聞こえます。








実りは自然と実が熟してくる、そこに不思議がある。
救いと実りは他力。








イエスの救いも、実りのように、
自力とは無関係。
あまりにも簡単すぎて自力にたよる人は、プライドが傷つけられる。
ヨルダン川に身を沈める将軍のような心境になる。









今日は歓迎礼拝、歓迎する人は宮崎に貝塚から嫁いで里帰りしているご婦人一人。
しかもすでにクリスチャン。
一般に教会の都合で歓迎と称するだけでみずしらないひとが礼拝に突然、訪ねてくることがない。

仲間内を相手に、本日の説教にイエスが救い主であり、今日実現しましたとナザレの田舎集会堂でイザヤの個所をイエスが説教した場面は圧巻であるが、
内容がイエスが語ることと変容されている。
救いは仲間内の自信喪失者に対して、救済をさしのべる程度の(自己救済の御守り札)と何ら変わりがない説教にはもううんざりする。

人は、自分に関することのすべては究極は死において終わる。

死を通り越えてゆくものこそ 、
永遠のキリストの命。

信仰の本質なのだが貝塚聖書教会の池尻牧師には、具体的な考えが及ばない。

牧師が十年一日の如く今日も、自己に関することについて信仰を問う姿は、古代ユダヤ人の文字に拘束される者の如く、終局を迎えて死を乗り越えてゆかない。

その中で、松田さんの高齢者祝福時の証は、戦争で死ぬことをまぬがれ、それとて
死んだ者の生にも及ばない人生に後ろめたさを感じながらも、イエスに頼み生かされている日々を感謝する信仰者の姿にどれほど感銘することか。
信仰心や祈りの力の程度など本人に関する限り、本人が努力云々に関わりなく、本人の問題は全て本人の死に直面して終局する。
牧師の求める信仰者の誠実性や地味な努力や精進する祈りは、外見上はもっともなものであるようにみえるが、全て死に際して無力だ。
それらは全て自力であり他力ではない。

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