2020年4月9日木曜日

いつものように雅子と森の中を散歩する


人との接触をできるだけ避け、感染防止を図るために東京など七つの都市に緊急事態宣言が出された。悠子は職場への出勤が自宅待機となり、花帆ちゃんとメルとゆっくりと散歩している。



わたしたちも雅子と桜の咲く中を散歩する。


教会の礼拝はインターネットで参加するようになり、日ごろコイノニア会で行われているオペラ画像の礼拝が特別ではなくなりつつある。


大山の森の中で過ごすものにコロナウイルスは礼拝の変容をもたらそうとしている。



歴史をたどるとイスラエルの集会所もシナゴーグ(ヘブライ語: בית כנסת[1]、)ギリシャ語のシュナゴゲー(集会所)に由来する。
聖書には「会堂」の名で登場し、元々は聖書の朗読と解説を行う集会所であった。
現在では祈りの場であると同時に、各地のディアスポラユダヤ人礼拝結婚教育の場となり、また文化行事などを行うコミュニティーの中心的存在ともなっている。



特に今は過ぎ越しの祭りの時期にありパンデミックが伝統的な教会にどのような歴史的変容をもたらすのか興味が尽きない。



人と人の接触を遮断するのが目的で発令された宣言にもかかわらず未だ人の移動が30%の減少にとどまっている、自由な移動が制限されていない。すべての経済活動を停止すると生活が成り立たなくなりコロナ被害以上の被害が発生するためだ。




医療機関、金融、ライフライン電気ガス水道事業は止める訳にはいかない。
食料品の調達も必要で、東京都はほかに理髪店、ホームセンターを業務停止にしたいらしいが国民の考えと齟齬が生じている。



公衆浴場はどうなのだろう。大山ロイヤルホテルは四月13日から18日まで営業を止めて、わたしたちは入浴が困難になる。たちまち風呂を求めて出向かなくてはならない。


そう考えると風呂に入らなくても死なない。コロナウイルスに罹患しても必ずしも死に至るわけではない、礼拝しなくても死なないが、礼拝の自由がなくなると生活から喜びが失せる。



ようは、共同体一人ひとりが生活を形成する隣人と一緒になって手探りで善き生活の選択をしてゆくこと、政治が問われている。それには参加者の自由な発話、祈りがいる。

人々の口から祈りがなくなるといのちの泉から水は湧きあがらず共同の井戸は枯渇し死に至る。


バビロン捕囚の頃、エルサレムの神殿は荒廃し二度と再建できるなどとは夢にも思えなかった。
バビロンに曳いてゆかれたユダヤ人たちはその地で聖書を読み神殿のほうを向いて祈った。



共同体の人々に希望をあたえてくれる命の源は共同体の神殿に向かって祈り助けを求めることであった。今私たちの共同体は新型コロナウイルスで人々が集合することを禁じられています。



隣人と引き離されて、共に祈る機会を失いつつある、神殿に向かって祈り求める行為が厄病の恐怖に幻惑されて祈りの言葉を人々の口から出せなくなっている。



国会はまだ会期末をむかえていない、人々の口を通して命に至る道を求める討論を活発に成せることを祈ります。



「正義の道にはいのちがある。その道筋には死がない。」


















過ぎ越しの祭りが終えると復活祭。



桜の咲く森でコロナ厄を過ぎ越して再び喜びの訪れを待ち望みます。

























 

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